【 愛欲魔談 】(9)痴人の愛/谷崎潤一郎

【 ソーシャルダンスクラブ 】

今回は谷崎潤一郎「痴人の愛」で、どのような方面から虫がナオミにたかってきたか、という話をしたい。

河合とナオミが小さな洋館を借り「ママゴト同棲」を始めてから3年が経過。その時点で「虫」(ナオミと同世代の青年)の登場という新たな展開となる。花に誘引された虫は、どこから来たのか。

そもそも河合が持ちかけナオミが「習いたい」と言い出した稽古事は、英語と声楽だった。つまりナオミと外界との接点は英語関係か、声楽関係となったわけだ。ところが2年が経過し英語の上達がまるでダメで、河合とナオミは口論から喧嘩となった。
虫はもうひとつの稽古事、つまり声楽関係から来た。改めてその点を考えてみると、河合がナオミを釣り上げることに成功した釣り餌は稽古事だったわけだが、後々になって今度はその釣り餌が災いを招いたことになる。まさに自業自得。因果応報。

さて声楽関係から飛んできた虫は何者。ナオミと同じく声楽を習っている生徒で、バリトンが得意で、音楽会ではナオミと組んでカルテットをやったという。……で、家まで来た用件はなにか。

声楽の先生肝入りで、ロシア人女性がソーシャルダンスクラブをつくる。
青年はその手伝い(ロシア女教師のアシスタント)をしている。
ナオミをその会に誘いに来た。

……というわけである。
知られてしまったことで、というか発覚をむしろ「いい機会」とばかりに、ナオミはソーシャルダンスクラブ入会に熱意を示し、河合を誘う。河合はずるずるとその方向に引きずられて行く。レッスンは週に2回。2人分の月謝はかなり高額なのだが、それもまた(金銭のことなど全く眼中にない)ナオミに言いくるめられてしまう。

このあたりから(演技たっぷりの涙や濃厚な愛情表現で)河合などいかようにも説得できるというナオミのしたたかさ・男好き・わがままな浪費癖がじわじわと現れ始める。河合の疑いをスルリとかわし、
「青年との関係」「ソーシャルダンスクラブに河合を誘う」
といった話題転換がじつに巧妙だ。しかもダンスクラブの教師がロシア人女で、元伯爵夫人で……といった点で、今度は河合の「ハイカラ好み・西洋女好き」がむくむくと出てきてしまうのだ。

もともと社交が苦手な河合は、不安を抱きつつもナオミと共にソーシャルダンスクラブに入会する。ところが実際にダンスレッスンに行きロシア女教師を間近に見て、手をとりステップを教えてもらい……といった(肉体的に極めて接近した)教授を受けている間に、有頂天というか舞い上がってしまう。ロシア女教師の香水がどうとか、体臭がどうとか、そういうことを言い始める。病気再発(笑)というか、やれやれもう勝手にしろというか。次の幕の河合の絶望前に、まあここいらでちょっと舞い上がらせておくかといった感じさえする。さすがは谷崎。

しかしその一方で、ナオミの浪費癖がさらにエスカレートしていく。ソーシャルダンスに上達し、レッスンの教室から銀座のダンスホールに連れ立って行くようになったあたりから、ダンスドレスの新調を次々に求めるようになる。家事も掃除もしなくなり、食事も作らず勝手に出前を頼むような生活となる。かつて河合が望んだ「理想的な妻」像から見れば、まさに真逆。最低の浪費女となっていく。河合の給料も貯金さえも、ジリ貧で消えていく。

「そろそろ河合の2回目ブチギレが起こる時期じゃないのか」と思うほどの荒れた生活となっていくのだが、この時期、河合は不思議なほどにナオミと喧嘩をしない。なぜか。

ひとつにはもう完全にナオミのペースに(これはナオミの作戦だとわかっていながら)ずるずると巻きこまれている。
いまひとつには、ロシア女教師とのダンスレッスン、その濃厚な肉体的接触を楽しみにし始めたのだ。その教師と踊っている間はナオミのことなど一切忘れ、ただただ「西洋女と踊っている」という状況に酔いしれている。その悦楽を失いたくないのだ。……なので「ナオミとのケンカはまずい」という気持ちが強く働いているのかもしれない。ナオミと大喧嘩してもし別れてしまったら、さすがにダンスレッスンに1人で行くことはできず、したがってロシア女教師と会う機会がなくなってしまうからだ。

つづく


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