【 愛欲魔談 】(10)痴人の愛/谷崎潤一郎

【 悲劇の除幕式 】

今回は谷崎潤一郎「痴人の愛」で、河合が夢見た自分勝手な人生計画がガラガラと崩れ始める、まさに「悲劇の除幕」。そのシーンを語りたい。

銀座のダンスホールに出かけた河合とナオミ。そこにはナオミと同年代の男友達が数人、ダンスに興じている。河合にとってそんな虫たちはどうでもいいのだが、その青年たちがお相手しているダンスパートナー、つまりダンスしている女たちの中に、ひときわ目を引く美貌の若手女優がいる。河合の関心はたちまちそっちの方にグッと向いてしまう。

その場はレッスンの教室ではなくダンスホールなので(河合が目下夢中の)ロシア女教師はいないのだが、その代わりに新たな「いい女」の登場となる。しかもなりゆきで、河合とナオミが座っているテーブルに青年たちと女優が来て同席する。河合としては悪い面がモロに出始めたナオミとしとやかな女優を目前で比べざるをえない。

さらになりゆきで、河合はこの女優とダンスする。ダンスホールという場になかなか馴染めず気後れがちでステップもままならない河合の未熟なダンスを口汚くののしりながらダンスするナオミに比べて、女優の方はいとも優しい。
このあたりでもういい加減に「おいおい河合、十分にわかっただろが。さっさとナオミと別れろよ!」と一男性読者としてはイラッと来る気分だ。しかし揺れ動きつつも、河合はナオミへの未練をまだまだ引きずっている。

さらにダンスホールのテーブル席では、ナオミのねじ曲がった性格面が露呈される。
ホールでは様々なナリの女たちが思い思いの化粧やファッションでダンスしているのだが、そうした中には、一生懸命に化粧し着飾った結果、少々度を越してしまった女性がいる。しかし毒舌を楽しむ人々はそれを「少々」とは見なさない。化物、妖怪……あらゆる陰口が飛び交う中で、ナオミは「猿」と陰口をたたく。

しかも居合わせたテーブル席の人々、河合、女優、青年に向かって「私は猿を飼っていて…」と突拍子もない嘘をつくのだ。むろんそれは厚化粧の女を嘲笑するための下劣な嘘だと読者にはすぐにわかる。「……うわっ、なんて嫌味な女だ」と苦い気分になるのだが、女優にはわからない。河合も黙っている。

もうこうなるとナオミという女、いや女だからどうこうというよりも「コイツは人としてどうなんだ」というちょっとした辟易感が出てくる。河合め、見事に失敗したな……どころか、よりにもよって最低の女を捕まえたな、といった(男性読者から見れば、だが)一種の同情感さえ出てくる。

【 帰路の電車 】

そうした読者の同情感というか河合に対する一種の憐憫は、ダンスホールからの帰路、電車に乗っている河合の克明な心理描写によって、さらに一層、切実に迫ってくる。疲労困憊し、ナオミに対してかつてない複雑な嫌悪を抱き始めた河合。彼はもはやナオミと並んで座らない。ナオミとは向かい合う席に座り、彼女を眺めつつ、河合は一種の虚無感にとらわれる。様々な思い。疑問。自分に対する嘲笑。雑多で切実な感情が次々に彼の内部に去来して行く。

「……これがダンスというものなのか?」
「……舞踏会というものは、こんな馬鹿げたものだったのか?」
「……自分ひとりで偉がって、無闇に他人の悪口を言って、ハタで見ていて一番の鼻つまみ者だったのは、だれだ?」

帰路の電車で、という設定がじつにうまい。
向かい側に座っているナオミ。そのすました顔をつくづくと眺めながら、脳裏に去来する自問を反芻する河合。その独白は、なんと数ページにわたり延々と続く。……さすがは谷崎。

つづく


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