【 愛欲魔談 】(13)痴人の愛/谷崎潤一郎

【 告 白 小 説 】

「小説を読む」という楽しみの不可解な魅力とでも言おうか、ふとそんなことを思う。
たとえばここで取り上げている谷崎潤一郎「痴人の愛」では、河合の告白談が延々と続く。読み手である我々は河合の愚かさにも、そこで語られているナオミの性向にも、呆れ果てている。ウンザリするほどに繰り返され、丁寧な口調で細かく描写される「河合の失敗」。

これがたとえば河合が実際に目の前に座っており、このような告白を長時間に渡って延々と聞かされたとしたらどうだろう。大概のまともな人間なら「いかにしてこの場を逃げ出すか」が最優先課題となるはずだ。では小説ではなぜこのような「ウンザリ談」に延々とつきあうことができるのだろう。

ひとつには「気兼ねしなければならない相手」が目の前にいないからだ。小説ならば、その告白にウンザリした時点で本を閉じればいい。本を閉じて中断したところで谷崎や河合が気を悪くすることはまずない。「しばらくはいいや」と思ったら、しばらくは本を開かなければいい。行動の主体はあくまでもこちらにある。

いまひとつの疑問。なぜ我々はこのような愚行に興味を持つのだろう。もちろん「そんなことに興味はない」と言う人もいるだろう。そもそも「小説などに興味はない」と言いきる人もいる。しかし小説を愛し、谷崎文学を評価する人は多い。

この「痴人の愛」における魅力とはなんだろう。読者が男性の場合は、おそらく河合に対し様々な局面で「馬鹿だなコイツは」とか「本当にどうしようもないヤツだなコイツは」とか思いつつ……そう思うことで若干の優越感を味わいつつ……しかし心のどこかで彼の愚行に同情している、あるいは彼の弱さに共感している。そうした心のさざ波が、いたるところで繰り返し寄せてくる。

【 疑 心 暗 鬼 】

さて本題。
谷崎潤一郎「痴人の愛」で自由奔放・身勝手・派手好き・男好き・家事能力なし……といった「最低の女ぶり本性」を思うさま発揮し始めたナオミに翻弄されつつ「しかしこの美少女 → 美人はオレのもの」といった自己満足から脱しきれない河合の葛藤、その続きを見ていきたい。

河合の私生活はあくまでもプライベートであって、ナオミとのあれこれが会社の仕事に影響することは一切ない、と彼は思っている。相変わらず以前のように「会社では自分は君子のように思われている」と信じている。

ところがこの状況はあっけなく崩れてしまう。彼の同僚たちは知っていたのだ。それは「酒の席で河合をからかう」というシーンとなって河合を狼狽させる。ダンスホールに来ていた学生たちの一人が同僚社員の縁者だったのだ。その目撃は「なんとあの河合が美人を連れ回し、社交ダンスしているらしい」というウワサとなって社内で拡散していたのだ。

美人といい社交ダンスといい、ウワサを聞いた社員たちはさぞかしアゼンとしたことだろう。同僚社員たちはニヤニヤしながら「けしからんではないか」という心理にもなるだろう。ヤッカミも手伝って「よしよしそれならばひとつ、酒の席でアイツをとっちめて、その美人とやらを我々も拝ませてもらおうじゃないか」ということにもなろう。

河合は、このからかいに仰天してしまう。「その美人は何者?」程度の噂であれば、さほどの衝撃は受けないかもしれない。しかしそのウワサには尾ひれがついている。「その女は数人の学生を手玉にとって遊んでいるらしい」というのだ。だからこそ同僚社員たちも「オレたちにも紹介しろよ」ということになるわけだ。河合は逃げるようにその場を去り、雨の中を徘徊するようにして帰路をたどる。

河合が疑心暗鬼で自宅に戻ってみると、ナオミはひとりでスヤスヤと眠っている。彼はその寝顔を半時間も眺め続ける。やがてナオミは目を覚ます。河合は聞いてきたばかりの噂をナオミに伝えるのだが、「常に複数で、学生たちと遊んでいるだけ」といった返答。キスと、涙と、感謝のささやきで、いつものように丸めこまれてしまう。
「ああ、またしても」と読者はあきれかえる気分だが、どうしたってナオミと別れることができない河合にとっては、結局は自分が折れるしかないことは最初からわかっているのだ。

またナオミの方はこの難局をなんとか乗り越えたものの、河合の疑心暗鬼はそのまま彼の内部に残留していることを(女の勘で)ちゃんと見抜いている。「今回はちょっとヤバかった。しばらく自重」といった行動をとるようになる。ダンスホールに行きたいとも言わず、まるで以前の河合との蜜月生活に戻るような態度をとる。河合も読者もナオミのそんな見え透いた態度などすぐに見抜いてしまうのだが、とりたてて問題にするようなことでもない。

一見穏やかな元の生活に戻ったかのような描写が続く。今までに何度もこうした展開を見せられてきた読者としては、「この穏やかさはどうだ。次になんか起こるぞ」と予感させるような暗黒の平穏だ。さすがは谷崎。

つづく


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