【 愛欲魔談 】(12)痴人の愛/谷崎潤一郎

【 旧 友 再 会 】

この5月連休に所用があり、岐阜の山から降りて名古屋に行き、新幹線に乗り、京都の実家に帰った。
この日は汗ばむほどの快晴。予想していたことだが、京都駅の混雑ぶりはすごかった。上半身はTシャツにマスクという格好の白人青年が数人、私とすれちがった。駅で右往左往していた人々はみなマスクをしていたが、目が笑っていた。挙動が軽やかだった。まるで新型コロナウィルス感染が終息したかのようだ。その気持ちはよくわかる。

「しかし諸君」と私はマスクの下でつぶやきながら足早に京都駅を出た。「……まだ早い」
いつも京都駅に着いた時点でやれやれ気分で駅前のスターバックスでラテを飲むのだが、さすがに連休。ほぼ満席だ。横目でチラッと見てそのまま通過した。

実家では2泊したのだが、その間に友人とお茶する機会があった。私とは小学校・中学校・高校が同じ。同郷で同い年というのはいいものだ。彼もまた同感だろう。
「そうか髪を全然染めないと、そういう頭になるんだな」と彼は笑った。
我々の体型は似ている。髪の癖毛も似ている。学生時代からそうだった。しかしいま、彼は真っ黒で私は真っ白だ。
「なぜ染める。若く見せたいか」
こういう質問を(酒抜きで)ズケズケと発する一種の快感も、やはり旧友ならではだ。

「なんでだろうねえ。……情けないねえ」
この反応はちょっと意外だった。友人は快活な男だ。「一生独身」が彼の主義であり、優秀なプログラマーであり、ずっとフリーでやってきた男だ。車は持ってないが車庫にはハーレー・ダビッドソンを置いている。私の質問に対しても、たわいないジョークのひとつも言って笑わせてくれるだろうと思っていたのだ。

【 車 中 の 破 局 】

「じつは魔談を読んでね」と彼は話し始め、私は驚いた。彼が魔談を愛読していることは知っていた。しかし我々のその席で魔談が話題に出るとは思わなかった。

友人は語り始めた。
彼は60歳を越えたあたりから「死ぬまでに日本文学をしっかりと読んでおきたい」と思い始めた時期があった。しかしなかなか実行できずに日々の生活に忙殺されていた。
「そんなこんなで自分にNG強しというか」
「自分にNG強し!……いい表現だな。今度魔談で使わせてもらう」
我々は笑った。

「谷崎を紹介してくれて、やっと本気で読む気になった」
「なるほど」

数年前、彼はある女性と交際を始めた。
「60を越えてから?」
「ああ」
これにもちょっと驚いたが、「やりかねない」とも思った。相手は17歳年下の女性で、居酒屋でアルバイトしていたらしい。
「どこかで聞いたような話だな」
「だろ?」

彼はその居酒屋にしばしば通うようになり、あるとき手紙を渡した。端的に「メールで雑談したい」とのみ書き、自分のアドレスを書いた。「迷惑だったら、この手紙は無視してくれていい」と結んだ。ちょっとドキドキしながら楽しみに待つこと3日間。4日目にメールは来た。

交際が始まった。2ヶ月後には一緒に温泉に行くほどの仲になった。ところが半年が経過した頃から会話が楽しくなくなってきた。よくよく考えてみれば、共通の趣味というものが全くない。2人でハイキングに行ったり、キャンプしたり、ハーレーダビッドソンの後部に彼女を乗せてドライブしたり、色々と試してみたのだが、どうもうまくいかない。
「……で、あるとき大坂のライブハウスに行ってね」
ライブもよかったし酒もうまかった。しかし会話は弾まなかった。

「帰りの電車でね」
一人分の座席が開いていた。彼女は座り、彼はその前に立った。数駅が通過し、彼女の向かい側の席がひとつ開いた。彼はかなり疲労感を感じていたので、そこに座ることにした。
その後しばらく彼は向かい側の彼女を見たり見なかったりで、なんとなく「これから先、うまく行くだろうか」と考え始めた。結論など出るはずがないことは初めからわかっていたのだがとりとめなく考え、「しばらく会うのはやめようか」と思い始めた。

さらに数駅が過ぎ、彼女の隣が開いた。うつらうつらと居眠りしている彼女はそれに気がついていないようだった。その空席に行こうかどうしようかと迷っている間に、そこに座った女性がいた。ハッと息を飲むほどの美人で、まさしく彼の好みだった。

彼女は居眠りしていた。じぶんはホロ酔いだった。そのような状況で、彼はその美人を見続けた。もっと見ていたかったが「次の停車駅は……」というアナウンスでハッと現実に戻った。ふと彼女を見ると、真っ直ぐに彼を見ていた。明らかに怒っている視線だった。

「つまり、美人をじっと見ていたことに気がついていた、と?」
「まあそういうこと」と彼は笑った。「女性の直感だろうね」
駅で別れたのが最後だった。彼はお詫びのメールを2回送った。しかし返事は来なかった。

彼の話は終わった。我々は立ち上がった。
マクスをかける前に互いの笑顔を見て、しっかりと握手して別れた。これほど「握手をして別れたい」と思ったことはかつてなかった。彼もきっと同じ思いだったのだろう。

つづく


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