【 パリス・謎の選択 】
今回はパリスの話から始めたい。
パリスはトロイア王子として生まれながら不吉な予言により王宮を追放され、羊飼いとして育てられた青年である。ところが最高神ゼウスの気まぐれにより、彼の前に突如として3人の女神たちが出現する。
この青年が真に賢明であれば、「わたしこそがこの中で一番の美女!」と争っているアホな女神たちなど相手にしないと思うのだが、やはりそこは人間である。女神たちがそれぞれ示した御褒美に目がくらんでしまう。
ところが「褒美に目がくらんでしまった」のはまあ仕方がないとして、パリスは「私に金のリンゴをくれたら、人間世界で一番美しいヘレネをあなたにあげる」という条件のアフロディテを選んでしまう。
なんとも納得できない選択だ。ここに10人の青年がいるとして、「すべての人々の王」でもなく「世界一の勇士」でもなく「世界一の美女」を選ぶ青年がいったい何人いるだろう。王や勇士になれば、美女など好きなだけ手に入るではないか。……などとパリスに意見するのは余計なおせっかいというものだろうか。
それにこの時点で、パリスはヘレネのことをどの程度知っていたのだろう。あるいはアフロディテの言葉「人間世界で一番美しいヘレネ」に魅了されてしまったのだろうか。謎だ。不思議だ。あるいはこうした話の展開の意外性こそが、ギリシア神話が長きに渡り人々に受け継がれ、語られ続けてきた理由なのかもしれない。
【 トロイア戦争 】
さてギリシア神話の中でも「トロイア戦争」は最も有名な話である。これを外すわけにはいかない。ギリシアの小学校の教科書にもきっとこの話は出てくるはずだ。この「パリスの審判」のくだりを先生はギリシアの小学生たちにどう解説するのだろう。あるいはただシレッと(笑)「パリスは迷うことなく金のリンゴをアフロディテに渡しました」でスルーかもしれない。しかしギリシアの小学生にもきっとおませな少女がいるにちがいない。サッと手をあげて「先生。どうしてパリスはこれを選んだのですか?」と質問が出たらどう答えるのだろう。
「……さあ。パリスは人間世界で一番美しいヘレネに会ってみたかったのかもしれませんねぇ」で終りだろうか。
しかし実際はそれで終わるはずがない。アフロディテの協力を得たパリスはスパルタに行って、まんまとヘレネを盗んだ。
「ギリシア神話」(石井桃子編/あかね書房)によれば「たくさんの金銀や宝石といっしょに、うつくしいヘレネをぬすんで、トロイアにつれてかえりました」とある。石井桃子さんの翻訳に異論をとなえるつもりはむろんないが、これじゃまるで第一目的が金銀財宝の略奪で、そのついでに(世界一美しいと評判の)ヘレネを拉致しました、みたいな言い方だ。実際はパリスの第一目的はもちろんヘレネである。なにしろ彼の野望には女神が味方している。
さて奥さんを盗まれたメネラオス王はカンカンに怒る。どの程度カンカンに怒ったのかわからないが、妃を盗まれたとあっては一国の王のメンツが立たない。私的にも公的にもカンカンに怒ったメネラオス王はアガメムノン王(メネラオス王の兄)と共に戦争の準備を始める。
「なるほどそういう理由で戦争勃発か。馬鹿げた戦争だな」と思いつつここまでギリシア神話を調べてきて「あれっ?」と思うことがある。サロメに継ぐファム・ファタールとされ「トロイア戦争の元凶」とされてきたヘレネ。しかしヘレネはただ拉致されただけであって、むしろ被害者だ。憎むべきは「非道の褒美」をパリスにちらつかせたアフロディテであって、神にあるまじきこの女神こそファム・ファタールではないか。
そう。ここに至って我々はファム・ファタールとして後世にその汚名を残すことになってしまった女たちが実際にやったことを調べてみると、その大方は「でっちあげの産物」であることに気がつくのだ。
ファム・ファタールの代表格とされ歌劇の世界ではつとに有名なサロメ。調べてみると、新約聖書に登場のサロメは「ヨハネの首」を所望などしていなかった。黒幕はサロメの母だった。サロメはただ母の希望をかなえるべく「踊りの褒美にはヨハネの首を」と王に告げたのだ。「自らがひと目惚れしてキスを求めた男ではなかったのか。なぜ母にヨハネの命乞いをしないのか」という疑問は残るのだが。
そして今回。ひとりの美女がなんで戦争まで巻き起こしたのか。そんなことがありえるのか。興味を持って調べてみたら、なんのことはない、ヘレネは拉致されただけであって、戦争に突っ走ったのは「メンツをこわされた王」と「かつての約束を守らなければならない王たち」だった。誠に歴史なんてものは、後世の人間が好きなように作りかえてしまうものなのかもしれない。「話として面白けりゃなんでもええ」というのが歴史の実体かもしれない。
✻ ✻ ✻ つづく ✻ ✻ ✻