エドガー・アラン・ポー【 5 】ラスト9年間

【 グレアムズ・マガジン 】

今回はポーの人生砂時計におけるラスト9年間を見ていきたい。ラスト9年間とは……
・ポー31歳(1840年):『グレアムズ・マガジン』編集長として活躍。
・ポー40歳(1849年):ボルティモアで謎の客死。
……この間の9年間である。

さて前回魔談のラストに出てきた『グレアムズ・マガジン』。
この雑誌は弁護士が創刊者なのだが、ポーの「文才開花 & 辣腕編集」で短編小説と評論をガンガン打ち出した。人気を得てどんどん成長し、なんとアメリカ最大の雑誌となった。発行部数3万7000部。ポー編集長は鼻高々だっただろう。この時期にポーが書いた短編小説の中に「モルグ街の殺人」がある。ポーの人生を語るのは今回で終了であり、次回からは彼の作品を大いに語ろうと思っているのだが、じつは最初に語ろうと思っているのがこの「モルグ街の殺人」だ。

この時期、『ジェントルマンズ・マガジン』から『グレアムズ・マガジン』へと雑誌社を渡り歩きつつ、じつはポーの最も大きな夢は「自分の雑誌を創刊する」ということだったに違いない。その雑誌名も決まっていた。
・ポー30歳(1839年):雑誌『ペン・マガジン』を構想。
・ポー31歳(1840年):雑誌『スタイラス』設立趣意書を発表。

しかし両雑誌ともついに日の目を見ることはなかった。
なにがハードルだったのだろう。あれこれ調べてもどうも今ひとつ判然としないのだが、
・資金繰りが大変だった。
・ヴァージニア(妻)が倒れた。
……おそらくはこの2点、特にヴァージニアの喀血がポーにとって最大の痛手だったのだろう。

・ポー33歳(1842年):ヴァージニア喀血

ヴァージニアは結核だった。ポーの生活が乱れ始める。酒の量が増し、編集長ポストを維持できなくなり、ついに『グレアムズ・マガジン』を去った。

【 最後の3年 】

ポーの人生を見ていくと、
「雑誌編集者として大いに活躍」→「創刊者と不和」→「離職」→
「小説家として作品を発表。文名をあげる」→「雑誌社に自分を売り込む」→
「雑誌編集者として大いに活躍」
この繰り返しがじつに(うんざりするほどに)多い。ポーはなぜこれほどまでに雑誌社変遷を繰り返したのだろう。

ひとつには、この時代、アメリカ北部では「雑誌社に席を置いている」という状況が、小説を書く者にとって誠に好都合だったのだろう。ポーの小説は短編が多いのだが、これは明らかに「雑誌に掲載され、短時間の読書で読者に楽しみを与える」といった理由があったからに違いない。この場合の「短時間で読了」というのはどれぐらいだろう。たぶん2時間〜3時間程度で一気に最後まで読んで「あー、面白かった」が、雑誌掲載の小説として理想的だったのだろう。またそうした「読者の反応」を最もダイレクトに素早く知る上で、雑誌社勤務、すなわちプロのマガジニストでいることがポーの執筆にとっては大事だったのだ。

そしてもうひとつ。ポーを取り巻く環境では、小説家に対する雑誌社の扱いがまだまだ酷かったのかもしれない。『グレアムズ・マガジン』を去った後、ポーは小説「黄金虫」で賞金をもらったり、自身の作品集『散文物語集』を刊行したり、「軽気球夢譚」など彼の文名を大いに高めた作品を次々に生み出している。
「なのにどうして?」と思うほどに、彼の生活は窮乏していた。
・ポー37歳(1846年):結核の妻を連れてブロンクス区にある木造家屋に転居。
・ポー38歳(1847年):ヴァージニア死去。

晩年のポーが暮らしたブロンクスの木造家屋

さてポーの最後の3年。
この頃、彼は夜会で出合ったサラ・ヘレン・ホイットマン夫人に求婚した。しかも再三の求婚。ご立派。「酒を断つ」ことを条件に婚約は成立したのだが……バーで飲んでいたことがバレて婚約は破談。

しかし彼は懲りない。今度は青年時代の恋人が未亡人となっていたことを知り、これまた再三の求婚。もう砂時計は3年もないというのに、なにをしておるのかね……などと呆れてしまうのだが、砂時計を知らない我々の行動とは、多かれ少なかれそのようなものなのだろう。彼は「なあに。まだまだこれから!」と(酒の勢いで)意気揚々気分だったのかもしれない。

しかしとうとうポーの砂時計は尽きてしまう。
ポー40歳(1849年)。この年、彼は10月に結婚式の予定だった。その10月3日、彼は酒場で友人に発見された。ひどい泥酔状態。意識混濁。すぐに病院に担ぎ込まれたが、危篤状態が4日間続き、10月7日早朝に(意識混濁のまま)死去。

謎1:ポーは酒場で発見された際、他人の服を着せられていた。
(単にまちがって着ていただけという説もある)
謎2:死の前夜に「レイノルズ」という名を繰り返し呼んでいた。誰を指しているのか不明。
(人名ではないという説もある)
謎3:死亡証明書を含め、ポーの診断書はすべて紛失している。
(何者かが盗んだという説もある)

ポーの文学活動は24歳にはじまり、40歳の死で終わった。たったの16年間だった。

余談。
当ホテルのオーナーである風木氏からのメールで、以下のような一文があった。

ポーは編集者であるからには、多くの作家を登用したはずです。ポーが評価して書かせたのはどんな作家たちだったんでしょうね。名を残した人もいるのでしょうか。

確かにそのとおりだと思い、調べてみたのだが、……結論としては「どうもよくわからない」としか言いようがない。こうしたことを調べるのは元々好きなので、ネットから論文まで調べてみたのだが、私が得心し風木さんに返答できるような情報を得ることはできなかった。ただそうした調査の過程で、おぼろげながら見えてきたものがある。それはこの時代特有の「アメリカの闇」とでも言おうか、どうやらそうしたものがあるような気がするのだ。

そのひとつは「南北対立の闇」である。ポーが生きた時代、それはまさにアメリカ国内を二分する南北戦争の前夜的時代だった。ポーが活躍したのはマガジンラッシュに沸いた北部の都市部であったので、一見、この闇は彼の名声にはなんの関係もないように思われる。しかし北部の多くの知識人や作家たちは、ポーを「リッチモンド(南部ヴァージニア州)出身の作家」と見ていた。要するに「南部の田舎者が少々の文才を鼻にかけて我々をコケにしやがって」といった反感があったに違いない。

その一例が、ルーファス・W・グリズウォールドという男。
グリズウォールドは自分の小説をポーにコテンパンに批評されたらしい。以来、ポーに深い恨みを抱くようになった。どのような手を使ったのかよくわからないが、グリズウォールドはポーの遺著管理人になった。そしてポーの死後、回想録によってポーを誹謗した。「酒と麻薬に溺れた下劣な作家」と書き、ポーの書簡を偽造することまでやったらしい。
酒はともかくポーは麻薬中毒者ではなかったので、この回想録を批判した人々は当時もいた。しかし多くの読者はこれにより、この後の時代に至るまで、ポーの歪んだ人物像ができてしまったようだ。

【 つづく 】


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