エドガー・アラン・ポー【アッシャー家の崩壊】(4)

【 メランコリー 】

「メランコリー/melancholy」という言葉はご存知だろうか。
そのままネットで検索すると、最近は「メランコリー」よりも「メランコリック」でヒットが多いらしく、初音ミクが踊っていたり、「深夜の風呂場で人を殺していた?」とかのアブナイ日本映画がヒットするようだが、ここで語ろうとするのはそのような類いの話ではもちろんない。あくまでもポーの時代の文学上の話である。
melancholy。
英語の形容詞である。最も端的な日本語では、「憂鬱な/気分が重苦しくふさぐ」が該当する。

さらにこの言葉を詳しく調べていくと、ちょっと面白い魔談的エピソードがこの言葉にはまとわりついている。古代医学においては、人間の体液のひとつである「黒胆汁」が過剰になると、メランコリックになるというのだ。
黒胆汁!……ボキャブラリーとしてじつに興味深い言葉だ。これはいったいなにか。なにしろ古代医学の話なので、じつに迷信的というかなんとなく想像はできるのだが、これはまだ「リサーチ中」ということで、今回は予告編レベルに留めておきたい。語りたい「魔言葉」はまだまだある。私が日常的に書きこんでいる「魔談ノート」(2016年4月開始)には7年8ヶ月の歴史がある。魔言葉満載ノートである。

さて本題。
「アッシャー家の崩壊」においては、この小説の冒頭部分、この一種独特の「うわっ、暗いなあ!」が、評論家たちにとってはじつに絶賛部分なのだ。……という紹介の仕方をしたからといって、私はそれをシニカルに否定しているわけでは決してない。多少のウンザリ感はあるものの、こういうのは読者の期待を高めるというものである。

【 ロデリック・アッシャー 】

朽ちかけた屋敷の当主、ロデリック・アッシャー。
あなたはようやくこの「少年時代の親友」と再会する。このような劇的な再会には大抵ショックがつきものだと言えるのだが、さてあなたの場合は、自分の人生の経験に照らし合わせてどうだろうか。私の場合、これは「30代・40代ではどうかな?」と自身の人生経験に照らし合わせて思うのだ。……というのも、60歳を越えた時点から、私の人生経験の中で「旧友が死ぬ」というどうしようもなく悲しいシーンが一気にグッと増えたからである。

いまこの文章を読んでいるあなたはいくつだろうか。60歳以下であれば、私のこの言葉を胸に刻んでほしい。……いや「刻む」ほどのことでないにしても、胸の隅に留めてほしい。60歳を過ぎたあたりから、友人知人がバタバタと死んでいく。死神の気配が、もう本当に自分の近くまで来ている……そうしたものを感じてしまうのだ。それが要するに「歳をとる」ということなのだと私は実感している。……なので語り手、つまり「あなた」がロデリック・アッシャーと再会した時のショックは、たぶん年齢と共に、その共感の具合が深まるであろうと私は思う。

二人は腰を下ろした。そして彼がまだ話し出さないあいだ、私はしばらくなかば憐れみの、なかば怖れの情をもって彼を見まもった。たしかに、ロデリック・アッシャーほど、こんなに短いあいだにこんなに恐ろしく変りはてた人間はいまい! いま自分の前にいるこの蒼ざめた男と自分の幼年時代のあの友達とが同一の人間であるとは、私にはちょっと信じられなかった。(原作)

このシーン。じつは私には、ここまで劇的ではないのだが、近いシーンがあった。新型コロナウィルスに感染し、まさに「余命半年」どころか「余命2ヶ月」宣言を受けた旧友。私はぶあついガラス越しにその旧友の憔悴しきった寝顔を眺め、彼の声も聞けず、彼の手を握ることもできず、その狭い通路で夜明けまで椅子に腰掛けていたことを一生忘れないだろう。こうした人生体験を経ているからこそ、「アッシャー家の崩壊」は私にとって、私の今の年齢にとって不朽の名作となりつつある。

死人のような顔色。大きい、澄んだ類いなく輝く眼。すこし薄く、ひどく蒼いが、非常に美しい線の唇。優美なヘブライ型の、しかしそのような形のものにしては珍しい鼻孔の幅を持っている鼻。よい格好ではあるが、突き出ていないために精神力の欠乏を語っている顎。蜘蛛の巣よりも柔かく細い髪の毛。それらの特徴は、顳顬のあたりの上部が異常にひろがっていることとともに、まったくたやすくは忘れられぬ容貌を形づくっている。そしていま、私が誰に話しかけているのだろうと疑ったほどのひどい変化は、これらの容貌の主な特徴と、それがいつもあらわしている表情とが、ただいっそう強くなっているという点にあったのだ。なによりも、いまのもの凄く蒼ざめている皮膚の色と、いまの不思議な眼の輝きとが、私を驚かせ恐れさせさえした。絹糸のような髪の毛もまた、まったく手入れもされずに生えのびて、それが小蜘蛛の巣の乱れたようになって顔のあたりに垂れさがる、というよりも漂うているのであったから、どうしても私は、この奇異な容貌と、普通の人間という観念とを結びつけることができなかったのである。(原作)

今更ながら、このような古典的な名作を読むにつけ、「読書こそは、じつは我々の頭脳にとって、最も活発な機能を要求する行為なのだ」と私は信じ始めている。
いまこの文章を読んでいるあなたに問いたい。スマホの雑多な会話・日常的なSNS……それであなたの頭脳は「想像力」を生んでいるだろうか。想像力を生む余裕さえない「スマホ忙状態」が、毎日、不断に、半ば強制的に続いているのではないだろうか。「忙」という漢字をよく見ると「心、亡ぶ」という恐ろしい意味が込められている。

「小説を読む」という行為は、文字を見て、そこに描かれたシーンを再現し、そこで活動している人間たちを生き生きと想像することである。それは「文字 → ビジュアル → 活動」といったプロセスを経て、ようやく感動を生むのだ。
あなたの日常は、あなたの思考は、どうですか?

【 つづく 】


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