エドガー・アラン・ポー【早すぎた埋葬】(5)

【 大震災と埋葬 】

この2024年3月11日(月)、東日本大震災発生から13年となった。午後2時46分、私の住む山村でも黙祷のサイレンが響き、私も仕事の手を止めて1分間の黙祷を捧げた。亡くなられた方々の御冥福をお祈りし、また残された遺族の方々の無念を思った。

つい最近に観たNHK特集で、震災直後の大混乱の中で業務にあたった自治体職員が、当時を振り返って語った話があった。その中には自分が見たことや体験したことを何年も何年も誰にも話すことができず、しかし10年以上も経過してようやく語る意欲が出てきたという過酷な話もあった。

回収された遺体が続々と運ばれてくるなか、交通網が遮断されてしまった地域では、安置から先に進むことができない。つまり火葬ができない。これはもう埋葬するしかないという判断だった。その役を負わなければならなかった職員は、かろうじて復旧したネットを使って埋葬方法を調べた。関西に埋葬を続けている村があると知って電話で連絡をとり、その手順を詳しく聞いた。その方法に従い、シャベルをふるって深さ1.5mの四角い穴を何十も掘ることになった。自分の人生で、まさかそんな業務を担うことになる事態に遭遇しようとは、たった数日前まで予想もできなかっただろう。

ところがすっかり埋葬されてしまった数日後、あるいは十数日後、遺体の身元がわかっていた場合は、遺族から「掘り起こしてほしい」という要望が相次いだ。一旦埋葬した遺体を、今度は掘り起こすことになった。その業務にあたった職員の心情は察するに余りある。
これはもちろん「このままではかわいそうだから」という理由による。遺族にとっては「ちゃんと火葬して」「ご先祖が眠るお墓に」という、せめてもの願いなのだろう。そうでなければ「かわいそうだ」ということになるのだろう。
西欧人がこの話を聞いたらどう思うだろうか。おそらくはすぐに理解できる人の方が少ないに違いない。死者を弔う行為や儀式は、民族により、国家により、宗教により、本当に様々だ。

【 セント・バーソロミューの虐殺 】

さてこのところ魔談は「早すぎた埋葬」冒頭で、ポーが例にあげた5つの戦慄記事を順に詳しく調べている。「▶︎」の次に書いたのは「要するにどういった内容なのか」という筆者メモのように受け取っていただきたい。戦争・天災・疫病・虐殺。なんのことはない、いずれも現代に至るまで全く克服されていない大厄災ばかりだ。

(1)ベレジナ河越え ▶︎ 戦争
(2)リスボンの地震 ▶︎ 天災
(3)ロンドンの大疫病 ▶︎ 疫病
(4)セント・バーソロミューの虐殺 ▶︎ 虐殺
(5)カルカッタ牢獄における123人の俘虜の窒息死 ▶︎ 虐殺

前回は「ロンドンの大疫病」を語った。今回は「セント・バーソロミューの虐殺」を語りたい。
これは1572年、ポーが生まれた1809年より237年前、フランスで起きた虐殺である。誰が誰を虐殺したのか。カトリックがプロテスタントを虐殺したのだ、といえばヨーロッパの黒歴史にある程度詳しい人であれば「やれやれまたキリスト教どおしの内輪喧嘩か」とうんざりした気分になるかもしれない。事実は「喧嘩」どころか「大虐殺」になった。経過を見て行こう。

【 1 】1560年〜1570年頃、プロテスタントはユグノーと呼ばれた。
フランスはカトリックとユグノーの内乱状態だった。
【 2 】国王シャルル9世(カトリック)が調停に乗り出した。
アンリ(ユグノーの指導者)と、マルグリット(シャルル9世の妹)が
結婚することになった。
【 3 】コリニー提督(ユグノーの中心人物)などユグノーの貴族たちが結婚を祝うため
パリに集まった。しかしコリニー提督は狙撃されて負傷。
さらにその2日後に暗殺。ユグノーの貴族は多数が殺害された。
アンリも捕らえられて、カトリックへの改宗を強制された。
【 4 】これをきっかけに、カトリックのユグノー虐殺は地方にも波及。
2万人〜3万人が虐殺された。

というわけで、結論としては「だまし打ちやん!」ということになる。聖職者のやることだろうか。イエスが見たら泣きますな。というほかない。

【 つづく 】


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