【 YouTube 】
あなたは日常的にYouTubeを楽しんでいる人だろうか。YouTubeの楽しみ方は人により様々だろうと思うが、私はスマホを持たない人なので(かつて持っていたが、目の疲労が激しかったので年齢を考えてやめた)、YouTubeはテレビ画面で観ている。観るのは夕食後で、夕食後というのは私の場合、大抵ホロ酔状態にある。ホロ酔状態というのは深く物事を追求して考えることはできないが、多少ハイテンションなので、シラフではまずやらないようなくだらないこともできる。
たとえばテレビでYouTubeを開き、ふと思いついたキーワードとか、映画タイトルとか、映画俳優とか、そういうのをどんどん検索する。なにをどう検索したってYouTubeは文句は言わないし、面倒くさがりもしない。「おいおいちゃんと真面目に検索してる? なんでこんな、訳のわからないものがずらずらと出てくるんだよ」なんてことはよくあるが、まあそれも愛嬌と思えば許せる。
そのような「検索遊び」をやっていたら、いきなり「真っ黒の背景に、真っ赤の〈魔〉の1文字」なんて画面が出てきた。「魔」のレタリング(文字デザイン)がやや下品だと思ったが、なにはともあれ「魔」である。「おおっ」と喜び、「いったいなんだこれは」と見ていると、映画「魔界転生」のPV(プロモーション・ビデオ)だった。
「魔界転生」。ご存知だろうか。
1981年の日本映画(深作欣二監督)である。島原の乱(1638年)を首謀した罪で幕府軍に惨殺され首をさらされた天草四郎が(悪魔によって)よみがえり、幕府に対し復讐に奔走する話である。
私は以前、50歳の時にこの映画をレンタルビデオ店から借りて観た。18年前のことである。なぜ18年前に借りたレンタルビデオを覚えているのか。50歳の誕生日を迎えて「今夜はなにか映画でも観るか」という気分になり、近所のレンタルビデオ店まで自転車を走らせた。その時に「魔界転生」に目を止めたのだ。沢田研二が天草四郎を好演していた。千葉真一がこれに敵対する武士を熱演していた。122分というなかなかの長編でありながら一気に観て、その世界にどっぷりと入ったことをよく覚えている。(死んだはずの)細川ガラシャは出るわ、(やはり死んだはずの)宮本武蔵は出るわで日本史ファンに対するサービス精神はなかなかのものだったが「これじゃ、ガラシャも武蔵もファンは怒るかもな」などと思いつつ観た。「これじゃファンは怒るかも」と笑った件については、後の魔談でゆるりと語りたい。
これを久々で観たくなった。そこでAmazonプライムを起動させて検索した。7日間のレンタルで¥330。これに同意すれば、1分後には観ている。便利な世の中になったものだと思う。
【 魔の誘い 】
さて本題。
なぜ魔談で「魔界転生」を取り上げようと思ったのか。単にこの映画のタイトルに「魔」の一文字が入っているからではない。自ら進んで(あるいはなりゆきで)魔界に入ってしまった人々は、結局のところ各自の目的を果たすことはできたのか、できなかったのか。また目的を果たしてしまったとしたら、その後はどうするつもりだったのか。そのあたりに興味を持ったのだ。
またこの映画は面白いことにエピソードの節目に「地獄編第一歌」「地獄編第二歌」と、タイトルが出てくる。なぜ「歌」なのかその点がいまいちよくわからないのだが、以下、冒頭の第一歌〜第五歌はこのようなエピソードとなっている。
【 地獄編第一歌 】天草四郎は魔界で転生し、復讐を叫んだ。
【 地獄編第二歌 】四郎は細川ガラシャを魔界に誘った。
【 地獄編第三歌 】四郎は宮本武蔵を魔界に誘った。
【 地獄編第四歌 】四郎は宝蔵院胤舜(いんしゅん)を魔界に誘った。
【 地獄編第五歌 】四郎は霧丸(伊賀衆)を魔界に誘った。
というわけでこの映画は、四郎の「仲間探し」から始まる。「悪魔のフォローがあるなら一人でやれよ」などと思ってはいけない。(普通じゃない)なにかを始めようとする時に「(普通じゃない)仲間を集める」のは、物語の始まりとしてワクワクするものである。
この「魔の誘い」を承諾し、4人が魔界に入ることに。
四郎も含めて、なぜこの5人はまともに往生せず魔界に入ったのか。
次回は「地獄編第一歌」の四郎を語りたい。
その次は「地獄編第二歌」の細川ガラシャを語りたい。
単にこの映画の解説や感想だけではなく、四郎、ガラシャ、武蔵、胤舜、そして霧丸。これら5人のうち、前から4人は実在の人物である。実際はどんな人物だったのか、そのあたりも探ってみたい。
【 つづく 】