【 魔談488 】叡山魔談・黒い筋

【 最後の数日間 】

叡山に放りこまれて7日目か8日目のことだった。兄弟のように(あるいは囚人仲間のように)毎日かずくんと暮らして来た私の目には、彼がすごく痩せてきた様子が痛々しいほどよくわかった。それは単に「痩せた」というよりも「やつれた」という表現の方が近い。私自身もきっとそうだったのだろう。しかしもともと食事内容にも量にもさほどの執着はなく、もともと痩せていた自分に対しては、大きなダメージを受けた自覚はなかった。

そうした点でかずくんと私は全く対照的だった。彼は叡山を降りる日が近づいてくるにしたがって明るくなっていったが、最後の2〜3日はまた元気がなくなった。もう本当に腹が空きすぎて、かろうじて保っていた(予備タンクの)元気さえ使い果たしてしまったような感じだった。
叡山入所当初から我々のところに伝言に来た若い僧がやってきていつものように静かに着座し、いつものように無言で我々を見つめても、かずくんは顔も上げなかった。ずっとうつむいていた。その様子は、反抗的というよりも魂を抜かれた人形のような姿だった。若い僧の伝言(というか命令)を聞いた時も私は普通の声で「はい」と返事したが、かずくんは返事もしなかった。

「去年はどうやったのやろ?」と私はふと思った。かずくんは今回で3回目と聞いていた。すでに経験した2回はどうだったのだろう。しかしそれを彼に聞こうとは思わなかった。きっと彼にとっては思い出すのもイヤだろうと想像した。

【 叡山焼き打ち 】

この叡山体験を克明に書いていて、「日時の感覚」というものについて、改めてふと思いを巡らせることがあった。今日は何月何日か。今日は何曜日か。今は何時ごろか。8歳の少年にとってそうした当たり前の日時感覚は、叡山に放りこまれた数日間であっけなく崩壊してしまった。ラジオ体操も学校もテレビもない。時間割もなく見たい番組もない。

大人であれば、その状況は「無人島に流された自分」のような一種の危機感を感じるに違いない。「やばい。こんなことでは今日が何月何日か、それさえわからなくなってしまう」といった恐怖を感じるかもしれない。そこで樹木の幹に石で傷をつけて日時を記録したりする。
しかし叡山にいる8歳の少年にとって、そのような「日時無感覚生活」は恐怖ではなかった。恐怖どころか、私はある種の居心地の良ささえ感じていた。今日が何月何日であろうが、何曜日であろうが、今が何時であろうが、本当にどうでもよかった。「そんなことじゃあかんでしょ!」と注意する大人は誰もいなかった。

あるとき我々ふたりが庭掃除をしていると、くまさんがきた。「ちょっとこっちにおいで」といった感じで手招きし、我々をお堂の裏手に連れて行った。そこにはささやかな菜園があった。大した広さではない。一辺3mほどの正方形の土地の周囲に網が張ってあり、野菜が栽培されていた。くまさんはその菜園の脇を通り、さらにその奥に我々を連れて行った。すると穴が掘ってあった。かずくんはおびえた。彼はもともとすごく臆病なところがあった。

「まさか……お墓やないやろな?」
くまさんは笑った。
「大丈夫。そんなんやない」
それを聞いて安心したものの、外観的にはまさにお墓だった。一辺1,5mほどのざっくりと掘られた正方形で、深さも同じく1,5mほどあった。
「なんやの?」
かずくんは少し離れた位置でまだ怯えていた。私は構わず穴に近づいて中を覗きこんだ。
くまさんは穴の中に入った。地表からざっと1mぐらいのところをスコップでザクザクと削った。
「これ、見てみい」
そこには真っ黒の、幅2cmほどの筋が横に伸びていた。一見して異様な地層だということは私にもよくわかった。その黒筋の上下にそのような色の地層はなかった。
「なんでそこだけ黒いのん?」
「これはな、叡山焼き討ちの時の地面や」

くまさんはかずくんを手招きした。
「かずくんは知ってるか?」
「うん」と彼は言った。「信長が叡山を焼いた話やろ?」
「そうや」とくまさんは言った。「昔……戦国時代いうてな。天下を狙っておった信長と叡山が喧嘩をしたことがあったねん」
それを聞いて私も思い出した。父が熱心に見ていたNHKの番組でその話を見たことがあった。
「なんでお坊さんと信長が喧嘩するのん?」
くまさんは笑った。
「信長もそう言いたかったやろな。坊主のくせに俺のやることにいちいち口出しするなと言いたかったやろな。……とにかくその時代の叡山のお坊さんたちは、信長のやりかたがあかんと思ったのやろな」
「ふうん」
「……で、信長はとうとう癇癪をおこしてな。叡山を丸ごと焼いてしまえと」
「ほんまにやったんか」
「ほんまにやった。……で、黒焦げになった叡山の土が、この黒い筋や」

この話は説得力があった。遠い昔の歴史物語を裏付けする証拠が、この黒い筋なのだ。
「入ってもいい?」
「ああ、ええとも」
私は穴に降りた。くまさんからスコップを借りて黒い筋を少しだけ削り、手の平に乗せて、匂いを嗅いだ。焦げくさい匂いを期待したのだが、もはやそれはなかった。しかし手の平の黒い土は深い感動を私に与えた。

【 つづく 】


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