【 魔談506 】モンマルトルの画家たち(7)

【 サン・テグジュペリ 】

予想もしなかったプロペラ機に乗ったことで、ささやかな興奮状態となった。飛行中にサン・テグジュペリを思い出した。フランスの名門貴族の家に生まれた彼は、自宅近くに飛行場ができたことから、毎日のように飛行機を見物に行くような少年だった。そのうちに飛行士や整備士たちと仲良くなり、「坊や、ちょっと乗せてやろうか」ということになったのだ。大喜びの彼は飛行場の上空を2周した。空から地上を眺めた数分間の大きな感動が、その後の彼の人生を変えた。

サン・テグジュペリといえば、「星の王子様」を連想する人が多いと思うが、私は「夜間飛行」に夢中だった。大学時代に何度も読んだ。
そんなことを連想しながら目を閉じて座席に座っていると、ガクンと高度が数メートル下がったような揺れが時々発生した。そのたびに床の板張りがギシギシッと音を立てた。機内の雰囲気といい、床の感触といい、飛行機というよりはバスに乗っているような感じだ。しかしこの床の下は地面ではないと思うと、ちょっと気味が悪かった。

サン・テグジュペリは44歳の若さでこの世を去った。彼が操縦していた飛行機が撃墜されたのだ。それは戦闘機でも爆撃機でもなかった。彼が飛ばしていたのは偵察機だった。もっと長生きをして「星の王子様」に次ぐ童話や小説を書いてほしかった。
大学生時代、「夜間飛行」を愛読していたころ、ふと「撃墜された時に彼が操縦していたのは、どんな飛行機だったのだろう」と興味を持ったことがあった。今の時代のようなスマホもネットもない時代の話である。大学の図書室をはじめ、あちこちの図書館に足を運んで調べた。

それはロッキード社(アメリカ)が1939年に開発した「P38ライトニング」と呼ばれる双発・単座の戦闘機だった。なんと胴体が3つに分かれている。ちょっと変わった格好の戦闘機だったのだ。サン・テグジュペリ少年が初めて飛行機に乗せてもらったのは12歳。それから32年が経過し、飛行機もずいぶん進化したものだと思いながら操縦していたことだろう。

P38ライトニング

プロペラ機の床からはかすかにニスの匂いがした。私の隣に座っていた白人巨漢は日本に来たら相撲取りになれるんじゃないかと思うほどの太りようで、座席が窮屈で仕方がないようだった。私を見てニヤッと笑うと、ポケットからウィスキーの小瓶を出してラッパ飲みを始めた。ニスとウィスキーの匂いがブレンドされて、なんともいえず不思議な匂いがかすかに漂ってきた。決して嫌な匂いではなかった。

【 シャルル・ド・ゴール空港 】

車輪が無事にシャルル・ド・ゴール空港の滑走路に接地した時点で、「さて、第2ハードルのはじまり」とつぶやいた。海外のひとり旅は本当に緊張の連続だ。「いったいこれのどこがツアーだよ」と毒づきたい気分だった。

第2ハードルは、空港からRER(エル・ウー・エル/高速郊外鉄道)に乗りかえることだ。空港とRERの駅は結構離れているのだ。
「RERに乗ってざっと半時間で、パリ北駅」という調べはついていた。
「問題は、窓口で切符を買わねばならんことだ」と私はつぶやいた。ガイドブックは「切符の自販機は数台あるが、大抵は長い列ができているか、故障していることが多い。窓口で買った方がいい」とアドバイスしていた。

私と一緒にサベナ飛行機を降りた乗客たちの様子を見ていると、みなベルトコンベアーから荷物を受け取り、同じ方向にぞろぞろと歩いてゆく。「たぶんその先にRERがあるのだろう」と見当をつけて、ついていった。彼らは次々にバスに乗りこんでいた。
「バス?」
状況が分からず再び混乱しそうになったが、バスの行き先案内に「RER」の文字があった。「あっ」と(ガイドブックに書いてあったことを)思い出した。空港からは、シャトルバス(無料)に乗ってRER乗り場に行くのだ。

バスに乗ろうとして並んでいるときだった。ちょっと不思議な光景を見た。
そこから少し離れた場所にひとりの女性が立っていた。私と同世代か、少し年下といった感じの東洋人だった。日本人か、中国人だろう。なんとなく「日本人じゃないかな」といった印象だった。ロングヘアで、青系のネッカチーフを首に巻き、黒いコートを着ていた。肩から黒いバッグを下げていた。
列に並びながら、ふと彼女を見て視線を感じた。私をじっと見ているように感じた。とっさに自分の背後を見たのだが、誰もいなかった。「日本人か?」「どうかしたのか?」「なぜ私を見ている?」などなど細かい疑問が次々に脳裏を走ったのだが、バスに乗らなくてはならない。話しかけてみたい気持ちはあったのだが、バスの列を離れる気にはなれなかった。

残念な思いを抱えたまま、バスに乗った。「今は心に余裕がない。そんなことをしている場合じゃない」と自分に言い聞かせるような気分でバスの座席についた。窓から彼女を見ると、まだそこにじっと立っていて、バスを見ていた。どんな気持ちでいるのか、さっぱりわからなかった。
バスが発進したのちも、私はなぜか後悔していた。取り返しのつかない選択をしてしまったような気分だった。「シャトルバスなど、1台、見送ったってよかったんだ」と何度も思った。

【 つづく 】


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