悪魔談(8)

悪魔談8

苦痛には限度があるが、恐怖には限度がない。
(ガイウス・プリニウス・セクンドゥス)
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正直に言って怖かった。マジに真剣に怖かった。母校でもない知らない中学校の校舎を夜に巡り、暗闇に沈む教室をひとつひとつ点検するなんて、正気の沙汰とは思えなかった。志願したわけでもなく、1000円の報酬なんてなんの魅力もなかった。しかもなぜか上機嫌のあどけない笑顔で隣を歩いている娘は、ぼくが見えないものを山ほど見てる悪魔娘ときている。「……代われるものなら、代わりたい」というのが、そのときのぼくの偽らざる本音だった。あの宿直先生だったら、喜んで代わるだろう。
ところがその先生ときたら、ルシファンが「行ってきます!」と言った時は唖然とした様子だったが、簡単に許可した。自分の画策を簡単に諦めてしまったか、あるいは酔いのせいでどうでもよくなったか、またあるいは目の前のシューマイの赤い箱に心を奪われ即座に開封してさらなる酒の世界に突入したかったのかもしれない。……まあそんなことはどうでもよかったが、ラクダの腹巻きといい、すでに酔いの回った赤い顔といい、酒臭い息といい、自分がやるべき任務を放り出し中学生を1000円で買収する行為といい、もう本当に「最低だな、あの先生」と悪口が出てしまうほどに、ぼくはムカついていた。ルシファンはぼくの怒りを見てほがらかに笑った。
「きっとひとりで飲むのがうれしいのよ」

だったらちゃんと任務を遂行してから、一晩中ひとりで好きなだけ飲んでいたらよかろう。ぼくはそう思ったが、黙っていた。どうでもいい腹巻き先生の話題よりも、目下の自分が置かれた信じがたい状況に全力で対応せざるをえなかった。
我々は宿直室を出て校舎に向かっていた。彼女は先生から受け取ったごつい懐中電灯が気に入ったらしい。にぶい銀色に輝くその懐中電灯はいかにもオール金属製という堅牢感みなぎる感じで、グリップにはでかい電池が直列で4個は入っているんじゃないかという重さだった。電池を出し入れする尻のフタには「宿直室」と書かれた小さな木札がぶら下がっていた。

彼女はその光をあちこちに向けながら、軽い足どりで暗闇をズンズン進んで行く。ぼくはそのすぐ後についていった。先生から預かった鍵束を持っていたが、そのガシャガシャいう音でさえ不気味だった。うっかりとうわずった声を発して彼女に「怖がってる」と察知されるのをひどく恐れていた。
しかし幸いと言うべきか、声を発する役は彼女の方だった。特に役割分担を決めたわけではなかったが、なんとなくのなりゆきで、彼女が廊下の窓から教室内を懐中電灯で照らし、「異常なし」と言った。ぼくはそれを聞いて教室のクラス看板を確認し、該当するクラス名の空欄に「◯」を記入した。懐中電灯はひとつしかなかったので、クラス看板も手元の教室一覧表も彼女が照らしてくれた。
彼女の声は冷静そのもので、怖がっている気配は全くなかった。ぼくは密かに舌をまき、「なんて女だ」と思った。彼女が「異常なし」と言うたびに「はい」と声をかけながら、内心では「異常なんてあるはずないだろ」と思いつつ次に進んだ。ところがそうではなかった。
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記憶では6〜7番目あたりの教室だったと思う。場所とか学年などは覚えていない。
「異常あり」
はい、という感じで「◯」を記入しようとしていたぼくの鉛筆がハタと止まった。
「……なんだって?」
自分でも情けないほどに震えを帯びた声だった。しかしそれどころではない。彼女はひっそりと並んでいる机の列の前のほう、最前列から2番目とか3番目あたりの机を照らしていた。
「女生徒が座ってる」
「どこに?」
「すぐそこ」
「なんで?」
「……さあ」
低くささやくような声は、微妙に笑いを含んでいた。なんでここで、この状況で、「笑い」という感情が生じるのだろう。ぼくには理解不能の不気味極まる笑いだった。
「すぐそこ」にいるのは生身の人間でないことは、彼女とのそれまでのつきあいで直感的体験的にわかっていた。恐怖という心理は、ブレーキ不能の自転車で坂道を降りてゆくようなところがある。ぼくの恐怖速度は一気に加速し、忍耐力は限界点に達しようとしていた。しかしそのような状況でも「見たい」という好奇心がまだ残っていたのは、我ながら不可解としか言いようがない。
ぼくは窓に近づき、その机を凝視した。なにも見えなかった。……ただ椅子が、机の下に収納されておらず引き出されていたことだけは、いまでもはっきりと覚えている。しかしそれは特に目立つ状況ではなかった。教室内のいたるところで、椅子は引き出されたままだった。
失意と安堵と恐怖が乱暴にシェイクされたような気分だった。「はじまったよ」と思った。「いつもの彼女が始まったよ」といった意味だったが、それは同時に長い長い「恐怖の中学校一夜」の始まりでもあった。
・・・・・・・・・・・・・・・・・・・(つづく)


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