【 テディベア専門店 】
両手をアーミージャケットのポケットに突っこんで、ホテル前の道をゆっくりと歩いた。どっちの方向に向かって歩いているのかさえわからなかったし、どうでもよかった。とにかくこの道を一直線に歩き、程よいところでUターンして反対側の歩道に移ろう。それなら道に迷うことは絶対にない。
すれ違う人々の会話が全く理解できない。言葉の意味がさっぱりわからない状況では、鳥のさえずりと変わらない。すれ違ってゆくさえずりは美しかった。「字幕なしでフランス映画を観ているようなものだな」と思った。若い女性のさえずりが特になめらかで美しかった。様々なさえずりにそれとなく耳をすませながらゆっくりと歩いた。「ああ、ぼくはずいぶん遠い国に来てしまった」という胸を締めつけられるような孤独感がじわじわと胸に広がった。すれ違う人々はみな幸福そのもので、クリスマスシーズンのショッピングを楽しんでいるように見えた。ただ目的もなく前に進もうとする私だけが、永遠に孤独を味わう宿命を背負った異邦人のように感じた。

いや目的はあった。私は総菜店を探していた。ハンバーガー店でもいい。とにかくなにか食物を買ってホテルに戻ろう。そう考えていた。そうした目的はあったのだが、思わず足を止めた店があった。
そこは人形店だった。より正確に言うならば「テディベア専門店」だ。陳列されていた人形は、すべてテディベアだった。その数の多いこと。数えたわけではないが、ざっと100体はあったように思う。壁の陳列棚に並んでいるのも、数台のソファーにぎゅうぎゅう詰めで座っているのも、ロッキングチェアーに座っているのも、すべてテディベアだ。大きさもまちまちだ。身長が10cmほどの「ドールハウスサイズ」もあれば、身長1m半ほどの巨大なテディベアもいた。「たぶんいまのシーズンが1年中で一番売れるシーズンなんだろうな」と思った。それにしても、どのテディベアもなんとまあ愛らしいこと。
【 脱 天 使 】
私は半ば呆然とそのショーウィンドウの前にしばらく立って、テディベアたちを眺めていたのだろう。あっと驚いた時は細い腕が私の右腕に絡みつき、人形店脇の路地にひっぱりこまれた。唖然として目の前の女性を見た。身長は私(171cm)とほぼ同じで、軽くウェーブしたロングの黒髪が胸のあたりでさわさわと揺れていた。いかにも上等のミンクのロングコートを羽織っていたが、胸元はあらわで、ボルドー(深い赤)のブラジャーから豊かな乳房がはみ出していた。右の乳房には小さな天使が彫りんであった。天使は小さな弓につがえた矢を引き絞っていた。
「娼婦!」という衝撃的な言葉が頭をよぎった。すばやく周囲と背後を見たが、彼女しかいなかった。ホッとした。
「チャイニーズ?」と聞いてきた。低い声だった。アンニュイというか、独特の気だるさを含んだ魅力的な声だった。しかしこの質問を受けた時というのは、微妙にムッとする。私はまじまじと彼女の真っ赤な口紅を見た。まるで濡れてでもいるかのようにテラテラと光っていた。
「ノン!」とやや強い口調で否定し、「アイ・アム・ジャパニーズ」とひとつひとつ単語を区切るようにして英語で答えた。どうしてそんなことをしたのか、我ながらよくわからない。おそらく「混乱していた」という状況に加え、「フランス語を話せない」という立場を端的に示したかったのだろう。
彼女は私の胸を見ていた。胸ポケットのすぐ上に貼りついている「US ARMY」と刺繍された布に注目していた。このアーミージャケットは寺町京極(京都)にある「米軍払い下げグッズ店」で買った品で、チャチなつくりのアーミールックではない。彼女は「本物の米兵か、あるいはファッションか」といった見分けがつかなかったのかもしれない。軽く笑い、ささやくような言葉でなにか言い、軽く手を振って路地の奥の暗闇に消えていった。私は呆然と彼女の後ろ姿を見送った。彼女が放っていた香水の香りがまだそのあたりに漂っていた。まるで路地の暗闇からさまよい出てきた脱天使を垣間見たような気分だった。
大通りに復帰してからは、もう立ち止まらなかった。総菜店のみを探した。幸いというか手頃な店を見つけた。惣菜、チーズ、フランスパン、冷凍食品を置いていた。透明のカップ型容器に入ったムール貝(25フラン/¥500)とスパゲティサラダ(22フラン/¥440)を買った。
その店を出た時点で、反対側の歩道に渡った。さっさとUターンし、ホテルを目指した。部屋に置いてきた赤ワインもいいが、ビールを飲みたい気分だった。途中で「ワイン&チーズ」の店があったが、ビールはなかった。
「フランス人はビールは飲まんのか?」とちょっと意外だった。もしかしてビールにはドイツのイメージがあるので嫌っているのだろうか。そんなことをあれこれ思いつつホテルに戻った。
【 つづく 】

