「資本主義」という宗教に対する懐疑(その3) 価値の尺度、「正当な対価」 <前編>

資本主義にとって、お金というのは非常に重要なものだ。お金を使って物や行為(労働)を交換することが、資本主義の基本だと言って間違いはないだろう。勤勉に労働したり、人の役に立つことをすればたくさんのお金がもらえる。お金は物と交換することができ、貴重な物を得るにはたくさんのお金を支払わなければならない。これが原則である。これはとても便利なしくみだ。この仕組みがあるお陰で、漁師さんは魚を売ったお金で自動車を買うことができる。だが、この仕組みは非常に便利で有益な一方、かなり無理なところもある。もちろん、物や行為の価格を決めるのは人であり、不当に安く買い叩かれたり、不当に高い物を買わされたりすることもあるが、そういうことを言っているのではない。質の全く異なる物や行為の価値を共通の尺度で比較するところに無理があるのである。自動車1台とサンマ2万匹は同じではない。どう見ても同じではない。自動車は食べられないし、サンマに乗ってドライブは出来ない。この2つが同じ価値を持つと言えるのは、両者に同じ値段がついているからだ(*1)。つまり、物の価値を比較するための道具だったはずのお金が、物の価値を決定しているのである。

上の例は、ちょっとこじ付けのように思われるかもしれないが、値段が価値を決定するという考え方は、現代社会の隅々にまで浸透している。どこかのおじさんが、「これ、高いんだよ」と言えば、それは、その物が良い物であることを意味する。「安物」とは粗悪品の代名詞だ。この原理は、人に対しても適用される。立派な仕事をする人、価値ある人にはたくさんのお金が支払われなければならないし、逆に言えば、少ししかお金をもらえない人は価値がないということになる。どうか怒らないでいただきたい。私が、それを正しいと言っているわけではないのだ。ただし、私の心の中にも、価値=値段という思考パターンは確かにある。自分の給料を下げられれば、自分の価値が貶められたような気になるし、自動車会社の社長の年俸が何億円というニュースを聞くと、なんとなく納得が行かない気分になる。

何年か前、青色発光ダイオードの開発者がノーベル賞を受賞したとき、「発明の対価」という言葉が話題になった。私はこの時、とても不思議な気持ちになった。学術研究の成果に、「対価」が支払われなければならないのか? 公平を期すために言えば、当事者の中村修二氏が要求したのは、特許によって会社に与えた利益に対する対価であり、発明自体に対する対価ではない。だが、その後、大学を始め各種研究機関でも、優秀な人材を確保するために研究者の給与を引き上げるという動きが目立つようになった(*2)。象牙の塔の住人にも、値段が付けられる時代なのだ。まさに、資本主義の原理は世界の隅々まであまねく行き渡ったと言えるだろう。
(つづく)


*1 字が似ているのでややこしいが、ここで言う「価値」とは物事の貴重さのことで、お金に換算した「価格」や「値段」のことではない。
*2 「特定国立研究開発法人」のニュースは有名である。 http://mainichi.jp/articles/20160227/ddm/012/010/137000c