この間、地面から手が生えているのを見ました。
もう二週間は経つでしょうか、夜道を歩いていると、薄暗い茂みの中に何やら際立って異質な物が見えます。見れば、人間の腕が突き出しているのです。二本の腕が、同じ胴体にきちんとついているとは思えない不自然な並び方で直立しています。その上、五本の指が、何かをつかみかけた形のまま硬直しており、妙にてらてらとした光沢と質感は、さながら屍蝋のようでした。むろんその時に「さながら屍蝋のようデアル」などと冷静に思うはずもなく、とっさに「死体だ!」と感じた息止まるような瞬間の記憶は今も鮮明です。
してその正体は。
「茂み」というのは、正確に言えば近所にある団地の花壇の奥の方のことなのですが、どうも花壇の手入れに使ったゴムの手袋を、誰かが手近な垣根の先にさして置いていったもののようでした。
なあんだ。びっくりするじゃないか、もう。心臓止まるかと思ったよ。
一件落着。
とはいえ、振り返ってみれば、自分がかなりの頻度で驚いていることに気づきます。しかもそれは、どうでもいい勘違いによるものがほとんどで、つまり私は「不当に驚きやすい」傾向を持つということになります。何というか、どちらかというといやな傾向です。
それにしても、あれを「死体」と思う人が続出して大騒ぎになったりしないのでしょうか。
あんなものを見せられたら、死体?バラバラ?犬神家!?金田一を呼べ!とパニックに陥るのが人の常というものです。
などと断言しつつも、いや、本当だろうか?と自分の常識を疑い出すと底がないのも私の傾向らしく、そんなのはちっとも「人の常」ではないのかもしれない、という気もしてきます。
「 幽霊の正体見たり枯尾花」といいます。なるほど枯尾花が幽霊に、とはありそうな例で、どこかしら風流な見間違えですらあります。
翻って、「死体の正体見たりゴム手袋」というのはどうなのか。ありそうな例ではあっても、大して風流とは思えません。
ゴム手袋を何に見間違えれば風流なのか、「死体」と見てしまった私にはわかりようもありませんが、考えるほどに、「何を」「何に」見間違うかということに、まったく重要ではない、さりとて無視できない何かが表れると感じられてきます。
いつだったか、ちょっとスピーチの原稿を作りたいと友人が言うので、パソコンを貸して何分か使ってもらったことがあります。
「けっこん」と書いて変換するとまず「血痕」が出てきたといたく驚いた友人に、勝手に将来を憂えられてしまったものです。出したかった文字は「結婚」らしく、なるほどおめでたい気分を台無しにしたのはいけなかった。この件と合わせて鑑みれば、単に私の場合、推理小説の読み過ぎなのかもしれません。
しかしこんな例もあります。先の話とはまた別の友人は、大きな地震に遭遇し、震動と轟音で目覚めた時、「ガス爆発か何かだろう」と思い二度寝したといいます。ガス爆発なのに何故起きないのか、実に危険な人です。
これは、死体を目前にしながら、「ギャー!ゴム手袋だ!!」と死ぬほど驚く人とているかもしれないと示唆する逸話ではないでしょうか。
(同様の例:「ギャー!枯尾花!!………なあんだ、よく見たら幽霊か」)
無作為なインクのしみが何に見えるか、で心理状態を調べる「ロールシャッハテスト」という手法がありますが、きっと世の中には、ロールシャッハテストの存在を知ってからというものの、人の顔も風景も、何もかも「インクのしみのように見えて仕方がない」という人もいるでしょう。そういう人の深層心理は、あのテストの守備範囲内なのか、気になるところです。
自分の「見間違い」その他を分析するという作法を覚えるとします。どんなに冷静な手法を身につけても変わらない、とっさの「見間違い方」もなくなりはせず、また覚えた作法のおかげで新手の「見間違い」も出てきそうで、これは、「分析」という技を覚えたことで見間違う対象がさらに広がるということではないでしょうか。
収納場所が増えるほどにものが増える、という収拾のつかなさにも、「考えれば考えるほど、わからなくなる」という事例にもよく似て、まるで夢の永久機関です。
私がこの先、「ゴム手袋」なら「ゴム手袋」というものを、何に間違うか?という可能性は、私の知り得る物の数だけあるのです。実在・架空を問わないことを思えばポテンシャルは無限であり、記憶力が低下するとはいえこの先しばらくは漸増傾向といえます。
その中でなぜか、死体。
まあ、そんなに奇想天外な見間違いでもなし、と、面倒なので考えるのをやめた矢先に、台所に捨ててあった古いゴム手袋を、ゴミ箱にひそんで首と羽をのぞかせた変な色のアヒルと見間違いました。
死体の時ほど驚きこそしませんでしたが、まるで覗き込むと逆に覗かれるような深淵です。推理小説のせいばかりにできないことは、どうやら確実です。死体よりは風流とはいえるのか、どうなのか。早速収拾がつかなくなってきました。
※2004年にホームページ旧「雨梟庵」に掲載した文章「雨梟庵雑記」に加筆修正のうえ再録したものです。
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