他人の空似は縁者の実似、クレーン謙さんと謙二さん。あと南米のことわざ。

二人は他人 illustration by Ukyo SAITO ©斎藤雨梟

よく似た二人

「似ている」という現象はとても面白いと思う。

美人女優の白峰星華に似ていると言われて「えへへへそうですか」とヘラヘラ油断していると、そもそも何の動物かも不明なゆるキャラ、逆鱗ギロリ丸にも似ていると指摘される。もちろん白峰星華と逆鱗ギロリ丸は全然似ていない。敢えて共通点をあげるならば眼光が鋭い。そういう経験はないだろうか。私はある。もちろん白峰星華と逆鱗ギロリ丸は仮名だ。「似ている」と一口に言っても、どこが着目点かによってまったく意味が変わる。

それはそうと、最近気になる「似ている」案件といえば、うちの近所に、イラストレーターで絵本作家のクレーン謙さんによく似た人がいることだ。

クレーン謙さんは、当「ホテル暴風雨」の連載でも展示でも大変お世話になっている方だ。連載中の「電気売りのエレン」は、大人も子供も楽しめてファンタジーやSFの要素も入った新しい冒険譚で、とても面白いので是非読んでほしい。

さてそのクレーン謙さんに似た人とはたまにすれ違うだけで話したこともないのだが、私は心密かに「クレーン謙二さん」と呼んでいる。謙さんと謙二さんはどこがというピンポイントな似方ではなく全体像が似ている。長身痩躯、顔の輪郭も全体のアウトラインもシャープ、帽子が似合って、奇抜な服装でもないのに何となく人の中で目立つところ、などなど。

先日たまたまクレーン謙さんにお会いしたので、近所に似た人がいるという話をしたところ、「それはクローン謙さんじゃないですか」と言っていた。アラやだうまいこと言うわねえ、という感じで、「クレーン謙二」よりよほど気の利いた命名だが、謙二さんに直接会ったならば、きっと「クローン謙」とは思わないだろう。というのも、「クローン」的に見分けがつかないほど似てはいないのだ。

いや本当に似ているのだが、似方に特徴がある。「同じ人物を、違う作者が描いた」ような感じなのだ。人間を作る「型」がどこかにあり、例えば仮にその型名を「クローン謙」とすると、クローン謙型をある作家Aが描いたのがクレーン謙さん、別の作家Bが描いたのがクレーン謙二さんだ。うまく表現するのは難しいが、謙さんはどちらかというと多動気味で表情の変化もはやく、変動にリズムがある。謙二さんは姿勢も動きもすっとまっすぐで静かな雰囲気。漫画に例えると、作家Aの作風は強めにデフォルメの効いたアメリカンコミック、作家Bは細く端正な線が特徴の少女漫画といったところ。

ちなみにクレーン謙さんの描く絵は、独特の緩急とパンチのある線が大きな魅力のひとつだ。アメリカンコミック的な画風の作品もある。つまりクレーン謙さんは、クローン謙さんをクレーン謙さん自身が描いた絵のような外見なのだ。込み入った上に早口言葉のようで申し訳ないが、この先はさらに妄想度が高まることを予告しておく。

ということは、クレーン謙二さんも、クローン謙型をクレーン謙二さん自身が描いた絵に似ていたら見事な対称となって面白い。意外とこの世はそういう風に成り立っているのかもしれない。だとすると、クレーン謙二さんは端正な線の少女漫画風の絵を描く人ということになる。謙二さんは平日の昼間によく颯爽と自転車を走らせていたり、スーパーで野菜を吟味したりしているので、イラストレーターなどの自由業者である可能性は高いと見る。確かめてみたい気分にもなるが、いくら何でも見ず知らずの人に対して、勝手に「クレーン謙二さん」と呼んでいることやこの狂った仮説を披露して、「ご職業は何ですか?」「絵を描いていらっしゃるのでは? それはどんな絵ですか?」などと聞くのは大いにはばかられる。この世の隠された仕組みは永遠の謎となるであろう。

ちなみにページトップにある絵では二人ともメガネをかけているが、実は謙二さんはメガネではない。それでも似て見えるのだから、相当に似ている。

肝心の謙さんがあまり似なかったのが痛恨だ。
しかし謙二さんは我ながら似ている……などと言っても誰も確認のしようがないので負け惜しみの極みみたいなところがまた痛恨だ。

本物(当ホテル2017号室「RADIO CRANE’S」のプロフィール写真である)

似ているものに「空似」なんてない。

このように縁もゆかりもないのに似た人同士のことを「他人の空似」と言ったりする。空似の「空」は、血縁があるゆえ似ていることを「実」とした場合の対義としての「空」だろう。

だが「空似」なんてあるだろうか。体格や顔立ちは主に遺伝子で決まるし、微妙なニュアンスの違いだが、体つきや顔つきは環境や習慣にもよりそうだ。ということは、顔や体のようすが似ていたら、それは遺伝子か成育環境か生活習慣が似ているのだ。人間なんて遡れば同一の祖先を持つのだから、3000親等くらいの、要は「赤の他人」でも、遺伝子の組成が似ていることはある。だいたい、どんな似ていない二人でも、人間同士であれば、ウミウシとかコオロギとかよりはお互いが似ているはずで、それは主に遺伝子のせいである。つまり、「見た目」というと空疎なものとされることもあるが、見た目が似ている時点でそれ以上実質的な「遺伝子」などの「何か」は似ているのだから「実似」と言っていい。「実」が何なのかは時と場合によるだろうが、妄想するのは面白い。たとえばモデルとなる「型」を共有しているというようなことを。

いやいや自分は実の親よりよほどゴリラに似ているという人もいるかもしれないし、じゃあ地球生物かも疑わしい逆鱗ギロリ丸似のお前の遺伝子はどうなっているんだというご意見もあろうが、そういう都合の悪いことはこの際脳内から抹消しておくのも一興、とおすすめしたい。

世界の空似

そういえば以前に、乗り換えによく利用する駅のホームで、弟によく似た人を見たことがある。じわじわとその人に近づいて行ったのだが、こちらに横顔を見せての立ち姿は、体格、頭の形、手にした鞄から本を取り出す仕草、ヌボーとした佇まい、服の趣味、などなど途中までは実の姉たる私が本人かと思うほどそっくりだった。弟は遠方に住んでいるため、おかしいなあと思いさらに近づいたある時、本人でないことがはっきりわかった。大きさが違うのだ。寄ってみるとその人は190センチ近い長身で、私の弟を全体に1割ほど相似拡大したような姿をしていた。そっくりなのに大きさが違うというのは相当に面白い。面白すぎてこっそりと眺め続けてしまった。

「弟を1割引き伸ばしたような」人に会うという経験も面白いが、文字にしたり口に出したりしてもその不条理感はかなりいい線を行っている。

もう一回書いてみるので是非味わっていただきたい。

「弟を1割引き伸ばしたような」

どうだろうか。

南米あたりのことわざにありそうではないだろうか。南米に妙な幻想を抱きすぎな気もしつつ、念のため調べてみたら、何と本当にそういうグアテマラのことわざがあった。日本語で言うと「他人の空似」のような意味らしい。

というのは嘘だが、調べてみたというのが嘘なので、調べたら実在する可能性はまだある。


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