1974年という名のバー(後編)

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常連はほぼ顔見知りで、あいさつするだけの人からつい話しこむ人までさまざまだが、不快な人物にあったことはない。年齢も、外での地位や立場も関係なく、この場所と時間を愛する想いだけが私たちをゆるやかに結びつけている。
それぞれ程度の差はあれ74年にくわしい客のあいだでは、当時の世相に引っかけた軽口がとぶ。「スプーン曲げてもつむじ曲げるな」とか、「地球か、何もかも懐かしい」とか。議論に熱中すると、オイルショック後の物価高にちなみ「Sさんは狂乱状態だ」とからかわれる。長嶋引退の年でもあるのだが、「永久に不滅です」はまず引用されない。店の外でも有名すぎるからだろう。

3杯目はおまかせ。一年通ったころからそうなった。マスターのチョイスを楽しむのだ。
やはり、と嬉しくなることもある。まさか、と意表をつかれることもある。見たことも聞いたこともないカクテルには、もちろんマスターの語りがつく。それを創った者の、呑んだ者の、愛した者の、虚実不明な物語たちもまた、確かに味わいの一部なのだ。

マスターの声にも酔いながらグラスをおく。
いつのまにか音楽はやみ、低くラジオが流れている。これも最初は驚いた。そう、録音された74年のものなのだ。40年前のニュースが流れ、40年前の交通情報、気象情報が流れる。昔の天気など知ってなんになるだろう! NHK第一のスタイルにはおそろしく確立されたものがあって、ふと現在のものと錯覚してしまうことがある。

「碇ですから」とマスターは言った。「この舟を同じ年につなぎとめておくための」
通い初めのころ、野暮とは思いつつ訊かずにいられなかったのだ。どうしてここまでするのか?
マスターはたまに店を舟にたとえる。理由はわからない。舟をイメージさせるものといえば、壁にかかった小さな海の絵と、数か所の地味な舵輪マークくらいだ。
ここが1974年であるという幻想を、マスターが船長として、我々が船員として守っているということだろうか。

私にはここにいる時間が長いのか短いのかよくわからない。しかし潮時はいたって明瞭にわかる。まよわず席をたち、マスターに、そして客たちに、いとまを告げる。
重いドアを閉めると、吸い込まれるように音がひく。
階段をのぼる。一段が何年にあたるのだろう。
のぼりきってもう一つのドアをあけ、外に出る。
ふりかえる。
通りに面したドアは無表情だ。飾りもなければ文字もなく、周囲にも看板の類はない。

私だけではないだろう。おそらく誰もが思っている。
いつか夢が覚めるのではないか。このドアが開かないときが来るのではないか。そもそもここにバーなどなかったのではないか?
確かめるすべは一つしかない。
私はまたここに来る。

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※初出『詩とファンタジー2015秋染号』(かまくら春秋社)

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