沐浴から始まり、赤ちゃんのころは大仕事だったお風呂の時間だが、最近息子はすっかり長風呂を楽しむようにさえなった。ちょっとしたプール感覚のようで、入る時こそ少々ゴネはするものの、入浴剤を自分で入れてたまに洋服も自分で脱いで浴槽に入るとなかなか出ようとせず、自分が先に出てしまってもひとりで何やらバシャバシャと遊んでいる。これはもう赤ちゃんではなく、ちゃんと人間の子どもである。
あまり広くはないバスルームにはおもちゃの類は出来るだけ持ち込まないようにしているが、胴体が4つに分かれるペンギンのおもちゃと、塩昆布の入っていた容器が息子の今のお気に入りである。
お風呂でどうして塩昆布なのかというと、空になった塩昆布のプラスチックのケースをおもちゃとしてお風呂場に持ち込んだ結果、どうやらそれがいたく気に入ってしまったらしい。口に当てて声を出すとちょっと変わった音がする感じや、そのサイズ感が今の彼にとって絶妙なのだろう。
お風呂から出るときも塩昆布の容器はそのまま持って出たりするので、翌日入るときにはバスルームにはなく、入ってから塩昆布の容器を探すために裸で外に出るということが何度もあった。
面白いのが、しっかり「塩昆布の入れ物どこー?」と言うことで、これがおもちゃではなく、どこまでも塩昆布の容器であることは理解しているのである。
そんなある日、一緒にお風呂に入っている時に自分が髪を洗っていると、どうもシャワーが思うように流れない。どうしたのかと思うと、息子が頭の上に塩昆布の容器をかざしてお湯をさえぎっている。これではお湯が頭にかからないわけだ。
「やめて、父さん今髪の毛洗ってるから」
「やだ、これしたいのー」
「やめて!洗えない!」
しかし、一向に息子は塩昆布を放してくれる気配がない。
泡だらけのまま、思わず強い調子で言った。
「なんでそういうことするの?どうして邪魔するの!?父さん髪の毛洗えないでしょうっ!」
すると、息子は小さな声で言った。
「耳に入っちゃうよ。。。」
え?耳に水が?父さんの耳に水が入っちゃうからさえぎってくれていたのか?
無垢な子どもの善意を踏みにじるようなことをしてしまった自分が恥ずかしくなった。
そんなことを考えていたなんて夢にも思わず、うっかり叱ってしまった自分はなんてひどい大人なんだろう、もうどこか誰も知らない遠い国に行ってしまいたい、と後悔の涙をシャワーの流れに紛れさせた。(うそです)
こういう時は素直に謝るに限る。
「ごめんね。父さんただ意地悪してるのかと思ったんだけど、耳に入らないようにしてくれてたんだ、ありがとう。でも、父さんは耳に入っても大丈夫だからしなくていいよ」
すると息子は「わかった」とあっけらかんと言い、すぐに「ここにもあわあわしてー」に戻ってくれた。
子どもは大人の想像を超えて実にいろんなことを考えている。邪魔をしたりふざけたりするのにも、それなりに理由があるのだ。
確かに自分の子どもの頃を思い出すと、同じようなことが何度もあったような気がする。良かれと思ってやったことが大人にとっては迷惑以外の何ものでもなく、叱られたこともよくあったが、その時はひどく傷つけられたような気がした。そしてそういうことが積み重なると、子どもの中で「大人は自分の気持ちなんてわかってくれない」というイメージが固定化され、世の中全体に対しての不信感が芽生えてしまうことになりかねない。
大人でも子どもでも、他人の気持ちを正確に理解するということは、実はとても難しいことなのである。自分が当たり前だと思っていることも誰かにとってはそうではなく、考え方や判断にはいろいろな違いがある。育児は人と人とのコミュニケーションのスタート地点であり、子どもの縦横無尽で柔らかな発想はそのことをあらためて教えてくれる機会なのだ。
時間と手間をしっかりかけること、そしてそれを積み重ねることが人間の相互理解への一番の近道なのかもしれない、と塩昆布の容器を眺めながら思っている。
(by 黒沢秀樹)