胃腸炎でマーライオンのようになったクリスマスイブから、ブルースシンガー並みのハスキーボイスになったりした年末年始のこの期間で、4歳半の息子はすごいスピードで語彙を増やし様々な会話をするようになってきた。
「あれはヤバいよね」
「超おいしいやつ」
「楽勝だよ」
ちょっと前までは何を言っているのかわからなかった子どもに突然そんなことを言われるとびっくりするけれど、日々楽しんでいるアニメの登場人物や、自分たち大人が日常的に使っている言葉なのでこうなるのは仕方がない。
こうして子どもの表現力も年齢と合わせてアップデートしていくのだと思う。
そう言えば「このロボットはアップデートしなくちゃダメなんだよ」とも言っていた。うどんを出しながらどういうわけか「はい、リンゴどうぞ」などと言っているポンコツな自分と比べると子どもの吸収力は本当にすごいものがある。
いわゆる空間認知能力もどんどん上がってきて、ひとりでは難しかったパズルや積み木のゲームなどにもハマっている様子だ。
かなり前に買ったブロックでの遊びもどんどん高度になってきており、一緒に作った高いタワーに自分の名前をつけ、さながらアメリカの大富豪になったかのような得意げな顔で見ている。
一緒に作ったタワーをお友達にも見せるために壊さずに大切に置いておくということもするようになっていたが、ある日自分がクローゼットを開けるときに、うっかりそのタワーを壊してしまうということがあった。
息子史上最高の高さを誇り、自分の身長を超えることを目標に建造されたそのタワーは中間部分が細く長くなっており、その上に人形が入れるような部屋が2個ついていたのだが、クローゼットの中の引き出しをあけた瞬間、自分の右腕がその細長い脆弱な部分に触れてしまったのだ。
気がついたときにはもう、ガラガラと盛大な音と共にタワーは土台から3分の1ほどを残し無惨に破壊されてしまった。
これはマジでヤバい。大変なことをしてしまった。
何しろ息子が細かいディティールにまでこだわり、時間をかけて組み立て、滑り台の位置なども気に入った場所に設置して完成した自慢の建物である。これはもう絶望して泣き叫び、涙とよだれと鼻水の海の中でアンパンチを炸裂させられても仕方がないと覚悟をした。
「ごめん!!父さんやっちゃった、引っかかってタワー壊しちゃった!ごめん、ごめんね!!」
必死で謝るも、時すでに遅しである。息子の自慢のタワーはバラバラになり、人形たちは床に散らばっていた。
しかし、どうやってこの失態をリカバリーしたものかとあたふたしていた矢先、思わぬことが起きた。息子はスタスタと走り寄るとそのタワーのかけらを眺め、あっけらかんとした口調で自分にこう言った。
「大丈夫、また作ればいいんだよ」
「え?!・・・い、いいの?」
「いいよ。また一緒に作ろうよ」
そう言いながら息子は散らばったブロックをかき集めて、何事もなかったようにまたタワーの再建に乗り出したのだ。
人は自分の想像を超えた体験をしたときに感動をする。タワーの修繕工事をしながら、自分は間違いなく感動していた。もし自分が息子の立場だったら、と考えると、こんなにポジティブに状況を受け入れられないはずだ。
こんな心の広さを、果たして子ども時代の自分は持ち合わせていただろうか。いや、きっとブチ切れまくって暴れているはずである。
今思えばかなり情緒不安定な子どもだった気がするし、実際にあまりに理不尽な父親の指図に爆発して部屋中のものをぶち壊して扉に穴を開けたり、どうしても納得の行かないことがあって小学校で椅子を投げたりした記憶もある。(←ダメだろ)
「もうおしまいだ」
「二度と同じものは作れない」
というようなネガティブな気持ちと、
「大丈夫、また作ればいい」
「次はもっといいものが作れるかもしれない」
というようなポジティブな気持ちは、同じ事象に対する認知の仕方の違いだが、これは主にその人がどのような環境で育ち、どのような信念や考え方を根底に持っているかによって大きく左右される。
今回のケースでは、自分よりも息子の方がずっと前向きで現実的な物事の捉え方が出来ているわけで、これは自分も含め息子に関わる誰かにとっても安心感のあるものであり、泣き叫ぶよりはずっと良好な人間関係を築く礎になるはずだ。
自分の「きっと絶望して泣き叫ぶに違いない」というネガティブで偏った考え方は事実とは違っていたということになるわけで、そんなふうに決めてかかっていた自分に情けなさを感じた。
そもそもこうした問題が起きたときに「大丈夫、また作ればいいんだよ」というのは大人が子どもに投げかけるべき言葉だろう。
子どもを信じる力をもっと身につけたいと思うと同時に、子どもに教えられることがこれからまだまだたくさんあるのではないかと思う新年のスタートだった。
(by 黒沢秀樹)