子どもの余白・大人の余白

今週も何度か公園に行った。
最近ではライブ当日の午前中から会場入りの時間ギリギリまで子どもと公園で過ごしたりしているわけだが、これは昔の自分には考えられない状況である。緊張感を持って入念にリハーサルを重ね、楽器の調整や衣装にも気を遣い、期待に応えるためにあらゆる労力を惜しまなかった自分が、ライブの数時間前に「おともだちがいるから順番だよ」とすべり台の前で子どもに言い聞かせているのである。
もちろん今でも手を抜いているわけではないが、子どもの存在というのはそのくらい生活を一変させてしまうのである。
憧れていたロックのイメージとは程遠い雰囲気もあるが、実際にこういう日常を過ごしてみると、これこそがロックンロールじゃないかと思うようになってきた。
この後のライブをいったいどんなふうにテンションを切り替えてやっているのか自分でもよくわからないが、その模様はYouTubeで見ることが出来るので興味のある方は是非覗いてみて欲しい。

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それはさておき、せっかくなので先週に引き続き公園での子どもの様子をもう少しよく観察してみることにした。
まず前回取り上げた「棒」はもはや必須アイテムであり、今週も自分の体と同じくらいのかなり大きな棒を見つけると、それを引きずりながら水たまりを叩いたり、地面に絵のようなものを書いたり、鳩に向かって「どいてー」と振り回したりして自由に遊んでいた。
しかし、ある瞬間にそのサイズの大きさに気づくと「ぽいっ」っと投げ捨てて走り出し、その後はすべり台などの遊具などでひと通り遊んで「ぎゅうにゅう」と言ってベンチに座っておやつ休憩をする、という感じである。

そんな中で子どものする特徴的な行動がいくつかある。

:高いところに登ってジャンプしようとする
:砂埃が立ちそうなところを選んで足でかき回す
:地面に足でひたすら線を引く
:枯葉の山に突進してぐちゃぐちゃにする
:どんぐりや小石をポケットに入れる
:やたらと何かにぶら下がる

などの行為である。どれをとっても養育者にとってはあまり歓迎できるものではないが、同じようなことをしている子どもがたくさんいるので、これは定番とも言えるものだと思う。

この中で自分も子どもの頃に確かにやっていた、心当たりのあるものがあった。絵を描くわけでも、何か目的があったわけでもないのに、ただひたすら地面に靴で線を引いていた記憶があるのだ。
この時の心境がどんなものかを思い出そうとするも、なんとも形容しがたいものだったような気がする。それはまさに「無の境地」とも言えるようなもので、ひたすら無心に足で線を引くことに集中していた。
あの感覚に近いものはなんだろうかと考えると、今の自分にとっては歌や楽器の演奏をしている時に非常に近いものであるように思う。よく、ライブの時にどんな気持ちで演奏してるのかと聞かれることがあるが、音楽に集中できている時ほど自分でもよくわからない、というのが正直なところだ。逆に集中できていない時ほどいろんなことを考えてしまっていて、そういう時は如実に演奏にもそれが出てしまう。
そう考えるとただひたすら足で線を引くというのは、心の中が忙しい大人にとっては実はなかなか難しいことであるようにも思う。余計なことを考えない子どもは、きっとすぐにそういう世界に入っていけるのだろう。

なぜ子どもが自然にそういう行為をするのか考えてみると、それは何かのバランスを取る作業なのではないか、とふと思った。幼少期の子どもには、これからたくさんの経験や知識を吸収するだけの余白があり、その余白こそが人間が生きていくためにとても重要な役割を果たしているのではないだろうか。
しかし、それは日々上書きされ成長と共に急速に失われていくものでもある。自分のことを振り返ると、ひたすら無心に線を引くのはその余白を確認するための儀式のようなものだったのではないかと思う。
何の意味も生産性もないことに集中出来るのは子どもの特権である。もしそんな余白が全て埋め尽くされてしまったら、子どもの心はとても窮屈なものになってしまうだろう。そして自分たち大人にこそ、そんな余白が必要なのではないか、と思う。そして音楽には、きっとそんな役割を果たしてくれる力があるはずだと信じている。

(by 黒沢秀樹)

※編集部より:全部のおたよりを黒沢秀樹さんが読んでいらっしゃいます。連載のご感想、黒沢さんへの応援メッセージなど何でもお寄せください。<コメントフォーム
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