3月も終わりに近づき、世の中はもうじき新年度のスタートという時期である。街を歩くと卒業式と思われる子どもたちの姿をよく見かける。
日々成長を重ねていく子どものステップアップの段階として、この先あらためてこういったタイミングが何度も訪れることになるのだろうが、これがどうにもあまり実感がない。
なにしろ自分が最後に卒業したのは自動車学校くらいで、入学や卒業、就職というものにあまり縁のない人生を送ってきたので、そういうものに対する経験値があまりに少ないからかもしれない。
しかし、自分に子どもが生まれて経験したこの3年余を経て、今はそんなタイミングを迎えた方々に心からお祝いの気持ちを贈りたいと思う。子どもを育てる全ての人は日々一緒に成長しているのである。
前々回のノートに子どもがおねだりのスキルをかなり上げてきていることを書いたが、そのぶん要求がどんどんエスカレートしていく傾向があり、どのラインで線を引くかはとても難しくなっている。しかし数日前の夜、かなりハードな交渉の末に行き過ぎたおねだりを取り下げてもらうことに成功した。
このところの子どもの就寝までのルーティンは、まずお風呂を出てから保湿クリームを塗ってパジャマに着替え、髪を乾かすところまでが済むと冷凍庫にある棒状のゼリーがもらえる。その後歯磨きをすることの交換条件としてキシリトールのタブレットがあり、そこまでが終わるとようやく水を飲んでからベッドに入り絵本やカタログなどを読みながら寝る、という流れである。
この日は昼間からかなりおやつを食べた上に、処方されている薬を飲むための特別なごほうびとして乳酸菌飲料も飲み、さらに棒状の長いゼリーを食べたいと自分で冷凍庫を開けて持ち出してきた。どれも少量ではあるが、これは明らかに食べ過ぎである。譲歩できないラインに踏み込んできたのだ。
「長いゼリー食べるっ」
「さっきも丸いゼリー食べたでしょう、今日はもうおしまいだよ、明日にしよう」
「やだ、今食べる!今がいいっ」(ゼリーの包装を噛み始める)
「そんなに食べたらお腹が痛くなるよ。それでもいいの?」
「おなかいたいのいやだ」
「じゃあ明日にしようね、歯磨きしよう」
「いやだー、今がいいっ!今たべたい!!開けてー!!」(泣きだしてよだれまみれ)
しばらく進展が見られないまま交渉は続くが、ここは譲れないラインである。すでに長いゼリーは子どもの手中にあり、包装を噛み切られた場合はもう後戻りはできない。ここでゼリーを奪って強制終了させるという手段もあったが、その後更なる絶叫が待ち受けていることは経験上間違いない。そこでもう一歩踏み込んだ駆け引きを試みることにした。
「そういうことなら父さんはもう何もできません、先に寝るね、おやすみ。」
「やだーっ!寝るのダメー!」
「じゃあもう一回だけ言うからよく聞いて。今日はおやついっぱい食べたのに、これも食べてお腹が痛くなるのはいやです。だからそのゼリーは冷蔵庫に戻してきてください。」
こんなことを言ったところで子どもに通じるはずもないだろうと思いつつ話した結果は、予想外のものだった。
子どもは涙とよだれにまみれたまましばらく立ちすくんだ末、すっと踵を返して冷蔵庫に歩いていき、ゆっくり引き出しを開けてその中にゼリーを戻したのだ。
「溶けちゃったから明日にとっとく」
にわかに信じがたい光景に目を疑った。
「ありがとう、よくできたねえ!明日また食べようね!」
と言いつつ、こんなことが起きるとは思っていなかった自分はしばし呆然としてしまった。
自分の欲求や要望に沿わない人の話を聞いて理解し、それを元により有益な行動にあらためるということは、大人になってもできない人がたくさんいる。
昨今のニュースを見る限りでは、社会的地位の高いと言われる人たちや、大国のリーダーでさえもがそうなのである。
子どもに見習うべきことはとても多い。まずは素直に感情を表現することである。大人になるとなんでも思ったことを言える状況はなかなかないが、受け入れてくれる存在があれば子どもはストレートに感情を表現することができる。そして表現の仕方で良くも悪くも結果は変わるという経験をした時、はじめて感情のコントロールの仕方を覚えていくのではないかと思う。
お菓子を食べ過ぎたらお腹をこわしたり、ごはんが食べられなくなって体調を崩す。他人に意地悪をしたり、盗んだり、傷つけるようなことをすれば何かしらの形でそれが必ず自分に返ってくる。こういった一般的な教養は長い時間をかけて人間がアップデートしてきた知識と経験の積み重ねによって成り立っているし、その時代ごとに進化、変遷を遂げてきたはずだ。
にもかかわらず、自分たちの身近に同じような問題は起き続けている。
虐待やDV、ハラスメントと呼ばれるようなものが日常的に存在し、暴力という最も幼稚で非効率な手段で戦争が引き起こされ、子どもたちを含む多くの人々が犠牲になっていることは残念でならない。何も知らないまま怒りや憎しみの連鎖の中に立たされる子どもたちはそれが当然の世界だと認識し、結果的に同じことを繰り返してしまう可能性は極めて高いだろう。その連鎖を断ち切る勇気と力を持っているのが本来の大人であるはずだ。
世の中にはいろいろな正義があり、価値観があり、それぞれに譲れないことがたくさんある。しかしそれを解決する手段として暴力を用いることは、子どもが泣いて暴れることと同じではないだろうか。
今自分たちにできること、それは育児を含め、日常にある目の前の様々な問題の解決手段に、継承すべき素晴らしいものと断ち切るべきものがあることを知ることではないだろうか。子どもは力で押さえつけたり、しつけという名の暴力でいうことを聞かせれば、結果それを継承することになるだろう。それは断ち切られるべきものであるはずだ。
相手を信じ、きちんと伝える努力をすること、そしてその結果を受け入れることの大切さを、3歳の子どもから教えられている新年度である。
(by 黒沢秀樹)