メアリー・シェリー著『フランケンシュタイン』を読んだ。
これがたいへん面白く、初読の時と随分印象が違ったのでそのことを書きたい。
簡単に言うと、初読の時は「怪物」の哀しい物語として読めたのだが、今回は現代的な意味での「モンスター」(「モンスターペアレント」など人間の行動や人格の異様さを表す表現としてのモンスター)を描いた複雑な物語と感じた。
何せ初読は中学生か高校生の頃なので記憶は不確かで、大人になって心が真っ黒に汚れてしまったから感じ方が違うのか、そもそも初読は翻案されたバージョンか何かで内容からして違ったのかはわからないが、それはさておき。
今回読んだのは宍戸儀一訳(青空文庫・底本は日本出版協同、初版1953年発行)、古い訳だが読みにくさやわかりにくさはほぼ感じなかった。(無料でウェブ上で読め、また青空文庫版のKindle電子書籍にもなっており、アプリを使えばスマートフォン、pcなど好きなデバイスで縦書きでも読めるので、とりあえず読んでみようという場合おすすめできる)
『メアリーの総て』を観る前に読む計画、前半。
なぜ今『フランケンシュタイン』かというと、作者メアリー・シェリーを主人公にした『メアリーの総て』(ハイファ・アル=マンスール監督)という映画が公開中で、これが「面白い」そして「観る前に『フランケンシュタイン』読むのがオススメ」と、ある方にすすめていただき、そりゃあいい考えだ!とアドバイスに従ったからだ。しかし映画は公開終了間近でロードショー上映に間に合わない気配が濃厚だ。いずれ名画座とかDVDとか何かの方法で観るつもりだが、せっかくならば、『メアリーの総て』は未見だが『フランケンシュタイン』は読んだという期間限定の状態の感想を書いておこうかと考えた次第。よって、映画のネタバレはなく(ちょっとだけ聞いた話を書くがおそらくネタバレ未満)、小説『フランケンシュタイン』についての言及が主になる。こちらは有名な話なのでストーリーラインを語る程度は気にせず書くが、それも知りたくない方はここで引き返すことをおすすめしつつ、『フランケンシュタイン』読み終わってからまたぜひ、お待ちしています。
読む前の『フランケンシュタイン』のイメージ
子供の頃、藤子不二雄原作のTVアニメ『怪物くん』に登場する「フランケン」をはじめ、「フランケンシュタイン的イメージ」はそこら中にあふれていた。ある時期までは、「フランケンシュタイン」は怪物を生み出した人間の名前であって、怪物の名前ではないということも知らなかったが、自然と知るようになった。何度も映画化されていて、それらを1本もきちんと観ていない私でも、名シーンを断片的にどこかで目にしたことがあるくらい有名な物語だ。
だいたいこんな話というイメージがないだろうか。
人造人間を我が手で創り出すという夢に取り憑かれ、長年研究を重ねてきたマッド・サイエンティストのフランケンシュタイン博士が、ついに怪物に命を与えることに成功する。しかし、創造主である自分に対して従順と決めつけていた怪物は暴れ出し、次々と人を襲い、やがて博士に破滅をもたらし、この研究を後悔させる。
メアリー・シェリーの書いた実際の小説と、二度の読書で感じたこと
上記のようなイメージを持って小説を読んだところ、意外な点が多く驚いた。怪物は最初から人間に害を成そうとしたのではなく、むしろ仲良くしたかったのに、醜い容姿のために怖がられ、危害を加えられて、いつしか人を憎むようになるプロセスが描かれていて、「かわいそうだ」という印象が強かった。我が手で命を創り出すという自己満足のためだけに怪物を生み出したフランケンシュタインが自分のエゴに復讐され報いを受けるのは仕方がないが、怪物はまったく救われない。単純な「怖い話」ではなく、神の領域に踏み込んだ人間に罰を与える物語のようだったのは意外で、しかし怪物はとんだ「とばっちり」で気の毒だ、というのが当時の私の感想だった。
さて、二度目に読んだ感想の前に、未読の時のイメージと原作の違いについてもう少し書くと、まず、怪物を生み出したフランケンシュタインが若い。人里離れた古い屋敷で怪しい研究に勤しむ博士ではなく、ジュネーブの名家の出身で、ドイツの大学に学んでいるまだ若い学生だ。また、人造人間を創ることは彼の長年の夢というほどではなく、寝食を忘れて勉学に打ち込んでいたのは確かだが、フランケンシュタイン自身さえなぜ自分が?と疑問に思うほどの偶然で「物に生命を与えるすべを発見してしまった」らしい。
今回読んで改めて驚いたのは怪物が多弁なことだ。最初は言葉を知らなかったようだが、高い学習能力で言語を習得し、フランケンシュタインと二度目の対面をする時にはもう、ああ言えばこう言うという感じで弁が立ち、実によく喋る。その話の運び方がまさに現代の「モンスター」的であり、不幸を悪事の正当な理由にすり替える言いようなどが何とも言えず不気味で不快で、「こういう人間、いるな」と思わせるのだ。
どういう「人間」に似ているかというと、例えばこんな感じだ。
人との距離の取り方が不適切で、親しい人でもためらうほどの許容をいきなり要求する。困惑してやめてほしいと訴えても、自分の行動に対して「あなたは当然受け入れるべきである」という態度を崩さない。相手も我慢の限界が来て怒り出すなど、ある閾値を超えると、急に自分の非を認める。しかし相手への謝罪や思いやりは感じられず、涙を流しながら「このような行動をする性格になるに至った不幸な生い立ち」などを延々語り出す。自分が欲しいものが得られず辛かったという感情だけにフォーカスして語りつつ、どこか言うことが芝居がかっていて、隙あらば同情を引こうとの意図が見える。相手がうっかり同情して態度を軟化させれば厚かましさがどんどん増し、「拒絶」「否定」であっても、関われば関わるだけ、相手の言動をまるで都合よく解釈してやることがエスカレートしこじれていくので、話し合いは不可能、「無視する」以外に対処法がない。無視もできない職場の上司や家族がこんな人間だったら本当に大変なことだ。
こういう不気味な人間はいる。多少を問わなければ誰もが持ち得る傾向で、同情すべき点はあるのかもしれない。だが重度となれば同情したが最後身の破滅、だいたい全的に同情する気にはとてもなれず、共感することも難しい。できれば関わり合いになりたくない。
フランケンシュタインの「怪物」は、醜く生まれ創り主にも愛されない不幸に関してはまったく罪がない一方、そういうある種の嫌な人間らしさを備えているのだ。作者は怪物を哀しい存在としながら、深く同情するという描き方ではない、と感じられて仕方なかった。
一方、怪物を創り出した若きフランケンシュタインはどう描かれるかというと、周囲の人間からはまったく責められる点のない、清らかで聡明で美しい青年、気高い心の持ち主と目される人物だ。だが「本当にそんな立派な人だろうか」と読者に疑念を抱かせる仕掛けは用意されている。どろどろした悪意というものはまったくなく、ただ目の前のものに夢中になれば他のことを忘れてしまう、無邪気な人物。だが自分の創った怪物が悪事を働いたと思い当たっても、それを周囲に言えなかったりなど、「気高い」というより「凡庸」「浅はか」「後先考えず」なところも目立つ。このフランケンシュタインに対する、創造主である作者のスタンスも何やら独特に感じられる。「生まれ育ちが良くて悪意がなくて無邪気って、本当にそんなに立派で良いことでしょうか? まあ、でもたまたま生み出したのがこの怪物でさえなければ、幸せに生きられたのかもしれないね、かわいそうに」とでもいうような。
というわけで、怪物、フランケンシュタイン両者の人物造形から感じたのは、イノセンスの敗北、しかも同情と甘い涙を絞るようなものではなく、かなり苦いものだった。
なぜ18歳という若さで、メアリー・シェリーはこのような壮絶な物語を生み出したのだろう?不幸な目に遭っても「私は何も悪いことはせずに一生懸命やってきただけなのに」と自分自身のイノセンスを主張しても許される年頃に。いや、年に関係なくそうした訴えは感情的に受け入れられやすく、自分を守る安直な鎧になりがちなのに、逆に「怪物」にそういうパフォーマンスをさせたあげくそこに潜む醜さをあぶり出し断罪して見せる。そこにただならぬ興味をそそられる。
ここで映画『メアリーの総て』に戻るが、「史実と違っている点もあるらしい」と断った上で、観た方が教えてくれたところによると、メアリー・シェリーは16歳の時に、詩人で自由恋愛主義者である後の夫と駆け落ちする。だがこの時実は夫には妻子がいたことが発覚したり、自分が生んだ子が次々と幼くして死んでしまうなど、過酷な経験をする。そんな中で創作に向き合うメアリーの姿を描いた映画だということで、きっと18歳で執筆したという『フランケンシュタイン』誕生の秘密も何かしら描かれているのだろう。(観るときの楽しみのために全然調べていないので、聞き違い、勘違いなどがあったらすみません)
ここからが本題、メアリー・シェリー著『フランケンシュタイン』、今回の妄想読書
これ以降は私の妄想である。メアリー・シェリーに関するごくわずかな情報から私が思ったのは、怪物を創った「フランケンシュタイン」は、夫の言動など、一度は美しさで自分の心をとらえながらやがて失望させたものすべて、「怪物」は自分自身の心に生まれた醜く邪悪なものを表しているのではないか、ということだ。
メアリー・シェリーは若い時から非常に進歩的な考え方の女性だったとどこかで聞いたこともあるので、夫の自由恋愛や妻子がいることは、始めから承知していた可能性もある。夫にただ一人愛される存在になれなかったことが彼女の心に怪物を生んだ、それだけの問題とはとても思えない「業」を作品からは感じる。
ただ、人間の自由というものを尊びながら、18歳のメアリーには、愛の始まりと終わりはもっと厳粛なものであって欲しかった、善と悪の境界はもっとくっきりしていて欲しかった、人間の生と死はもっと遠く隔てられていて欲しかった、などの願望があったのではないか。しかしその無邪気な願望を、美しく正当なものとは単純に信じられない知性があの物語を生んだのではないか。
「怪物」はひたすら愛されたい、認められたいと願ってひどい悪事を繰り返す。結果、愛や承認を得ることは決してない。世界は、持たざる者がさらに奪われる不公平に満ちている。神様が「お前はこれまでいいことがなくて気の毒だったから幸せにしてやろう」とひょっこり現れたりはしない。そんなふうに帳尻が合うと決まっていれば、未来の幸福を貯金するために、みんな必死で不幸を集めるかもしれないが、世界のありようから学習した人ほどそんな愚かなことはしない。
心から望んだものが得られず、悲しい思いをした。この世界が思ったような場所ではなく失望させられた。
そんな時に「最もしてはいけないこと」をメアリーは悟っていて、それでも心の中に抑えきれず生まれてしまった望まない怪物、それこそがあのフランケンシュタインの「怪物」なのかもしれない。
愛されなかった時どういう道を選ぶか。
別に「愛」でなくてもいい。
どうしても欲しい、これが手に入れば大きな犠牲を払ってもいい、という妄執に取りつかれることはあるだろうし、手に入らないのが不当と感じてしまうこともある。そこまで執着しても手に入らないことだってもちろんある。
そんな時どう生きるのか。
若くしてつきつけられた厳しい問いに対して、「歪んだ道を歩んで滅びる」という実際には選びたくはない道を見事な物語として創作するというのがメアリー・シェリーの答だったかと思うと実に一筋縄ではいかない作家で、恐ろしい18歳……と戦慄した読書、とても楽しい時間だった。
いずれ映画『メアリーの総て』を観たら、実際のメアリー・シェリーのことも少し調べた上で映画のこと、『フランケンシュタイン』のことも書きたいと思う。よければまたお付き合いください。
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