『ナンシー関の名言・予言』:天国を見上げ、下から目線で考える「感動させてくれ病」

観戦者とはこれくらい勝手に楽しむものだ illustration by Ukyo SAITO ©斎藤雨梟

「感動を与える」の謎

どうでもいいけれど気になることがある。

近頃、スポーツ選手がひどく頻繁に「感動を与えたい」と発言している。

それがどうしたと思われただろうか。私が気になるのは以下のような点である。

何かというと「上から目線だ」とかとバッシングされがちな世の中だというのに、「感動」を、「与える」って、かなりレベルの高い「上から目線」ではないだろうか。

私自身、この発言が「上から目線で気に食わない」とは別に思わない。こういう発言をするのは大抵若いアスリート、スポーツにただただ打ち込む若者で、言葉を生業とする人たちではないのだし、かつて名選手のプレーに感動して憧れて自分も同じ道を選んだ、の延長線上の発言くらいに感じる。「感動させてあげますけど、いかがですか?」と直接言われたら「結構です」だが(これは「要らない」を意味する方の「結構です」であり、現代風には「大丈夫です」か)、発言自体にそこまでイラついているわけではない。

でも、「上から目線」を匂わせたあらゆる発言が叩かれるのに、あれはダメでこれは良いって、なんでだ?という疑問が拭えない。

それが、ある本を読んでいて答えがわかった気がしたので今日はそのことを。

平成を振り返って『ナンシー関の名言・予言』を読む

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ある本とは、『ナンシー関の名言・予言』だ。
本書は大部分がすでに単行本に収録されたナンシー関のコラムの傑作選なので、ファンにとってはいつか読んだ懐かしい内容だ。

ナンシー関を知らないという人もいるかもしれない。肩書きはいつも「消しゴム版画家」とされていたが、消しゴム版画とコラムというスタイルで主に「テレビ」について書いたコラムニストであり、明示的には本当にテレビのことしか書かないのだが、テレビで発信する側の「こう受け取ってくれ」というメッセージと、受け手の受け取り方のギャップをしばしばテーマとしていたため、暗示的に受け手である「現代の世の中」を切り取って書く文章が鮮やかだった。2002年逝去、享年39歳。本当に惜しい人を亡くしたものである。

私はテレビを見ていた頃も、見なくなってからもナンシー関のコラムは読んでいて、最後の方は知らないテレビ番組をその著作で知るという感じだった。ゆえに今読み返すと、古びることなく面白いとはいえ、書いてあるテレビや出演者のことがまるで思い出せず言わんとするニュアンスがつかめないものもある。だが本書は「予言」ということで、今後こうなるのではないか、とナンシー関が書き、成就したことに注目して編集してあるため、今につながる内容ばかりで、「これ何だっけ?」と立ち止まることなく読めた。

感動させてくれ病

その中で「ここ数年、世の中に深く静かに広まっていた『感動させてくれ病』は、オリンピックという4年に1度の絶好のどさくさに紛れて、飛躍的にその病状を深めた」と書かれたコラムがあった。念のため言うがこれは2019年にとっての「ここ数年」ではない。1996年、アトランタオリンピックの頃に書かれた文章だ。

「『感動をありがとう』という、始まる前から用意されていたフレーズで無理矢理の大団円のうちに幕を閉じたアトランタ・オリンピック」という冒頭文から始まるこのコラムは、誰もかれもがタガを外されたようにはばかりなく感動を求める異様さについて書く。

はたして「感動させてくれ」と叫ぶことが人目をはばかるべきことなのかという問題もあるが、私は”べきこと”だと思えてならない。はばかってくれよ、と思う。だって、ほんとにここ数年で、特にスポーツ絡みの「感動」はとてつもない快楽に直結することを学んでしまった上でのそのシュプレヒコールは「私をキモチよくさせて」という意味でしかないわけである。快楽の追求を人生の旨とするなら文句は言わないが、「感動させてくれ」と叫ぶ善男善女の方々のほとんどは、自分がキモチよくなりたくて叫んでいることに気づいていない。「頑張ってお国のためにメダルを取って来い」というエゴイズムを悔い改めた正義が「感動させてくれ」だと思っているのである。

(『ナンシー関の名言・予言』世界文化社 より 初出は「ナンバー」1996年9月12日号 『何が何だか』に収録 )

読んで驚いた。「感動感動感動感動」ってこの頃からだったか、と。「感動させてくれ病」は、もはや一般的なスポーツの楽しみ方のデフォルトにすらなっていて、「蔓延」のち「定着」と言っていい。

4年に1度のオリンピックも、パラリンピックにもスポットが当たるようになり、障がい者のスポーツが注目されて色々な活動がしやすくなるならばいいんじゃない、くらいは思うが、オリンピックだけでは商売がらみが見え透きすぎて「感動」成分が不足するからパラリンピックでもっと供給しよう、という雰囲気すら感じて怖いくらいだ。

感動コンシャスな現代の私たち

しかしここで、やれやれ、などと辛気臭い顔をするのは思考の敗北だ……などと思う間もなく、気づいたことがある。気づいたからといって思考の勝利とは限らないわけだが、「感動させてくれ病」が蔓延し、定着し、多くの人が耐性を得た現代、実は誰もがもう「感動=快楽」ということなど自覚しているのではないだろうか。言葉にはできていないが意識のどこかでわかっている気がしてならない。

話は変わるが、ちょっと前まで、携帯カメラを使ってキメ顔で「自撮り」して、しかもその写真を「盛る」というのは、明らかに「恥ずかしい行為」だった。人前で排泄するのが恥ずかしい、みたいな、それ自体悪ではないが人に見せるのがマズイという種類の恥ではなく、もっと「人として恥ずべき」とか「カッコ悪い」行為だったと思う。そういう行為に抵抗のない人は昔からいる。一方、「そういうの平気でできるヤツはカッコ悪い」派もまた、結構な多数だったのだ。だが、今では世の中全体がそうした行為に慣れた。レンズを自分に向けてお決まりの角度で「イイ顔」をして、写真を画像処理して盛るばかりかSNSを通じて全世界に発信してしまうわけだ。これは一概に恥じらいがなくなったというよりは、「誰しも自分を良く見せたい。それは普通のことだ。私もまたそういう当たり前の欲望を持っている」と認め、他人のそれも許容するという、ある意味「精神を必要以上に盛るのをやめた、カッコつけるのをやめた」おかげとも言える。盛りまくりの自撮りを良しとしないのは、逆にカッコつけすぎの自意識過剰と看破されてしまっていて、事実その通りなのだ。

「感動」に関してもこういう変容があったと思う。

私は何だかんだで「自撮り棒」を見るとププッと笑いたくなる古いところの大いに残ったタイプであり、「感動」とは、お膳立てされたテレビから気軽に得るものではなく、もっと自発的で偶発的な深いものであるべきという思いがあった。だがそれは「感動」の価値を盛りすぎていただけかもしれない。

感動したいというのが食欲同様の欲望であるということ、美食の限りを尽くしたいという趣味もあっていいが、「手軽に手っ取り早く満たしたい」と思うのもまた普通のことだということを、「感動させてくれ」という人たちは今や、わかってしまったのだと思う。

よって、「感動を与えたい」というのは、何ら「上から目線」ではないのだ。むしろ、「良いものをより安く提供します」くらいの親しみやすい(しかし身を切った)所信表明であり、受け取る側も「同じ買うなら安い方がいい」という感覚でそれに乗る。「感動?私にゃ関係ないね」なんてパンクなことを言うアスリートの方が今や高級ブランド的な「上から目線」で、「感動を与えたい」派はファストファッション。そういうことなんじゃないのか。しかし「国民すべてが求めている感動をもっともっとお国のために供給せよ」みたいな感じで、ナンシー関の嘆いた事態よりさらにこじれていないか、これは。「感動を与えたい」の次は、「感動させられなくてごめんなさい」という発言がくる気がしてきた。それはやっぱりどうかと思う。平成ももう終わりに近づき、日本は今こんな感じなんですよナンシーさん。

ナンシー関が今いないのは大変寂しく残念なことには違いないが、こういう人がかつて実在して、こんなことを何となく天上をイメージして上を向いて呟いたりできるだけで、ありがたいのかもしれない。


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