ぼくの代表作の一つである。発売から17年たっても現役だし、海外4カ国で翻訳出版されている。
ぼくが初めて作った絵本で、いろんな出版社に持込んで回り、10社で断られた。今ではいい話のネタをもらったと思っているが当時は当然悔しかったし腹も立った。
10社も断られた理由はわからない。ただこういうことは言える。実績ゼロの新人を使う気概のある編集者は少ない。これまでなかったタイプの作品を採用する勇気のある編集者も少ない。
宮沢賢治は多くの出版社に作品を持込んだがその価値は理解されず、生前は1冊の童話集と1冊の詩集が自費出版されたのみだった。
人類史上最高の小説とも言われる『失われた時を求めて』も持込んだすべての出版社で没となりマルセル・プルーストはやむを得ず自費出版した。
そんなものなのだ。ぼくごときが文句を言ってもしかたがない。いい作品なら必ず認められるなんて寝言に過ぎないのだ。
『ながいながいへびのはなし』のストーリーはとても単純だ。あまりにも長すぎて「あたま」と「しっぽ」が長く会っていないへびがいる。あるときお互いのことを思い出して、どうしても会いたくなる。会いに行く。
ぼくはへびのことを書いているわけではない。もちろんへびの姿を借りて人間を描いている。
誰にでも「昔はそばにいたけれど今は遠く離れてしまった人」がいるだろう。親子、兄弟、学校時代の友人。めったに連絡を取ることもないが心はずっとつながっていて、ふと思い出すときがある。「元気かな?」「会いたいな」
そんな気持ちを書いた。大人と子どもではこの絵本の受け取り方は違うかもしれない。
長いへびも幼いころは短いへびだった。頭がふりむけば、すぐしっぽがいた。二人にとっては成長することがすなわち離れていくことだった。人間の成長もそういうものではないのか。
絵本では描く部分も大切だが、描かない部分も大切だ。描かない部分こそが読者の想像力を刺激するからだ。想像する部分は大きければ大きいほどいい。
この絵本にはへびの頭としっぽしか描かれていない。その間の途方もなく長い胴体を感じてほしい。短いへびが長いへびとなるまでの途方もない時間を感じてほしい。
ネットのどこかで「子どものころ大好きだった本」というようなことが書かれていて、ここまで来たかと嬉しくなった。
『ながいながいへびのはなし』は2001年12月刊行。当時5歳だった読者も今は22歳だ。絵本には、子どものころ好きだったものを大人になって読み返す楽しみもある。人によっては我が子と一緒にということだってあるだろう。人生の各場面で何度も出会える、そしてそのたび違う喜びを与えてくれるのがよい絵本だ。
「子どものころ好きだった」こういう言葉は何度でも聞きたい。
※2005年 Éditions du Sorbier社よりフランス語版刊行)
※2006年 Korean Literature社より韓国語版刊行)
※2014年 青林國際出版より台湾版刊行)
※2015年 陝西人民教育出版社より中国本土版刊行)
※厚生労働省 社会保障審議会推薦 児童福祉文化財
(by 風木一人)
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