『100万回生きたねこ』と対をなす一作

『ぼくの鳥あげる』佐野洋子・作 広瀬弦・絵 幻戯書房

『ぼくの鳥あげる』【amazonで見る】

『ぼくの鳥あげる』佐野洋子・作 広瀬弦・絵 幻戯書房
(装丁・宮川和夫 企画編集・風木一人)


主人公は切手なのかもしれない。最初から最後まで登場しているのは切手だけだからだ。見たこともない文字と見たこともない鳥が描かれた美しい切手は、一見無関係なたくさんの人々の人生をある期間だけ切り取ってはつなげていく。

このふしぎな物語を読むとき、つい連想してしまうのが佐野洋子の代表作『100万回生きたねこ』だ。
『100万回生きたねこ』は1977年に書かれ、『ぼくの鳥あげる』は1984年に書かれた。7年の間隔をおいて書かれた2作はとてもよく似ていて、どちらも前半と後半にきっぱり分かれる構成を持っている。
『100万回』の前半は「猫がさまざまな飼い主の間を渡っていく」で、『ぼくの鳥』の前半は「切手がさまざまな人の手を渡っていく」。そして後半はいずれも運命のふたりのラブストーリーに収束する。

作家は7年たって再び同じテーマに挑んだ。しかし佐野洋子はただ猫を人にかえて自作の焼き直しをするような作家ではない。では7年を経て何が変わったのか。

『100万回』の猫の飼い主たちは完全な脇役である。猫の前半生を表現するために登場するに過ぎず、猫は彼らに対する愛着をまったく持たない。飼い主たちのうち誰かひとりが欠けたとしても猫の運命は変わらない。白猫と出会えなくなったりはしない。
一方、『ぼくの鳥』で切手をリレーする人々は違う。ワンシーンの登場でありながら過去を持ち未来を持つ人間であることを感じさせる見事な描写がなされている。切手を知らず知らずリレーする彼らのうち誰かひとりが欠けても女の子と若者は出会わない。

この違いは作者の視点の違いと言ってもいいだろう。『100万回』は主人公にぴったり寄りそう視点で書かれているが、『ぼくの鳥』はメインのふたり以外にも少しずつ寄りそう視点で書かれている。猫は絶対的な主人公だが、女の子と若者は相対的な主人公なのだ。

『100万回』がまさに子供から大人までの本であるのに対して、『ぼくの鳥』は大人のための本である。人生経験を重ね、自分がたったひとりのかけがえのない存在であるように、他者もまたその人にとってかけがえのない存在であり、大切な一度きりの人生を生きていることを知ってしまった人のための作品なのだ。

主役と脇役など本当は存在しない。ただ視点の置きどころで生まれるかりそめの見え方に過ぎない。どの登場人物にも1冊の本になるだけの物語はあり、たまたまこの本でなかっただけだ。選ばれた特別な人のみが主人公になるわけではない。私たちはみな額に切手を貼って生まれてくるのだ。

(by 風木一人)

(初出「週刊読書人」2019年8月9日号)

『100万回生きたねこ』佐野洋子 講談社

【Amazonで見る】

関連ページ:『ぼくの鳥あげる』(佐野洋子・作 広瀬弦・絵)を編集して(1)


 

トップへ戻る