勇気ある人たちに、そして壁のない世界に~『かべのむこうになにがある?』

かべのむこうになにがある? ブリッタ・テッケントラップ作 風木一人訳 ビーエル出版

『かべのむこうになにがある?』ブリッタ・テッケントラップ作 風木一人訳 ビーエル出版

「戦争は人の心の中で生れるものであるから、人の心の中に平和の砦を築かなければならない」
小学生のとき授業で教わり感銘を受けたユネスコ憲章前文である。ブリッタ・テッケントラップの絵本『かべのむこうになにがある?』を読んで、私はこの言葉を思い出した。

高い壁に囲まれた町に動物たちは住んでいる。誰もその壁が何のためにあるかを知らない。誰も壁の外に何があるかを知らない。誰も壁の存在に疑問を持たない。
年老いた熊は言う。
「昔からいつでもそこにあったから、あるのが当り前になってしまったのさ」
お調子者のきつねは言う。
「難しいことを考えるのはやめろよ。そうすりゃハッピーになれる」

小さなねずみだけが考える。
「この壁の向こうに何があるんだろう?」
他の動物たちに笑われ、無視され、面倒臭がられながら考えるのをやめなかったねずみは、飛来した鳥との出会いからついに壁の外を知る。
鳥は言う。
「本当のものを見る勇気があれば壁は消える」
事実、外の存在を知ったねずみには壁が見えなくなる。町はもう壁に囲まれていない。そしてねずみから外の世界の話を聞くと、他の動物たちも壁をすり抜けられるようになるのだ。

これは大人向けの絵本なのか?
いや作者はこの寓意に満ちた話を子どもに向けて書いている。80冊以上の絵本を手掛けてきたテッケントラップは、このテーマが子どもにとって難物であることを熟知しているに違いない。それでもあえて書いたのはなぜか?

作者はハンブルク生れのドイツ人で現在ベルリンに住んでいる。かつて壁のあった街は、いまEUの盟主たるドイツの首都である。
EUは大戦の反省から生まれたヨーロッパ統合の夢であったが、ヒト・モノ・カネにおいて国と国の壁をなくそうとした壮大な実験は近年綻びをあらわにしてきた。貧富の差は拡大し、移民流入による人種・宗教の対立は激化している。各国で極右極左が台頭し、イギリスはEU離脱を決めた。ふたたび保護主義、排他主義の壁が立ち始め、大西洋の対岸には数千キロの国境を壁で閉ざそうとする大統領が現れた。
子どもの心によりそう愛らしい絵本を作ってきた作家が「壁の絵本」を作ったことには、世界情勢へのさしせまった危機感があるとしか私には思えない。

2015年以降ドイツは100万人の難民を受け入れた。いまのベルリンに物理的な壁はない。しかし心の中の壁は別だ。人種の壁、文化や宗教の壁、言語の壁、経済格差の壁。
これからを生きる子どもたちの前には数知れぬ壁が立ちはだかっている。それを取り払うのは我々大人の責務でもあろう。しかし最後は子どもたち自身が勇気を発揮するしかないのだ。
たった一人で壁の向こうを夢見たねずみのように。

(by 風木一人)

(初出「週刊読書人」2018年5月4日号 訳者から読者へ)

『かべのむこうになにがある?』について別の角度から書いた記事はこちら「壁は心の中にある」

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