アメリカに3年ほど住んでいた。20世紀の終わり頃のことである。
東海岸のある研究所でポスドク(短期契約の研究員)をしていたのだが、同じ研究室に、新しいアメリカ人のポスドクがはいってきた。
ずいぶん前のことなので、はっきりは覚えていないが、たぶん秋の終わり頃、クリスマスの話題が出た。彼は自分がクリスチャンだと言い、「科学者がクリスチャンだなんて、おかしいだろ」と付け加えた。
なるほど、クリスチャンの科学者と言うのは、アメリカでもおかしなことであるのか、と、妙に感心した。
私は渡米前、「アメリカでは無宗教と言うと変に思われるから、宗教を聞かれたらBuddhistと答えろ」と誰かに言われ、それを素直に信じていたのである。
たしかに宗教の教義や神話には科学的な知見に反するものが多い。従って「非科学的」と言われる。だが、宗教を人間社会における一つの現象として見れば、それは科学の対象になり得る。
102号室のコールさとう氏のお仕事も、このあたりに関係しているのではないだろうか。おそらく世界中のあらゆる民族、文化に何らかの神やたましいの概念、およびそれらの概念を中心とした宗教の体系がある。だとすると、神やたましいを感じるのは、人間の心の一般的な性質といえる。
だがそれは過去の話ではないか? いや、現在でも世界には数億人の敬虔なイスラム教徒(0703号室の柳野嘉秀氏も紹介している)がいるし、アメリカを含む多くの国で、キリスト教会の力は依然として強い。
現代でも、程度の差はあれ、地球上の多くの人が、神やたましいの存在を感じているのである。
人間の認知は、物理的な事実と必ずしも一致しない。
下の図は、「カニッツァの三角形」と呼ばれる有名な図であるが、物理的にはこの絵の中に三角形は存在しない。だが、ほとんどすべての人がここに三角形を見る。
ほとんどすべての人間がここに三角形を見るのであれば、人間にとっては三角形が存在すると考えてよいのではないか。
このような哲学的な問題は脇に措くとして、「錯覚」は、現実的に人の行動に強い影響を与える。
下の図は、立体的に見える道路標示の例だが、この道路を通るドライバーは、これがペイントだと知っていても、ブレーキを踏まずにはいられないだろう。
別の例を出そう。印象派の絵画は、現実には単なるカラフルな点の集合だが、我々の心はそこに美しい風景、輝く光、生き生きとした人々の姿を見る。
そのような風景や人々の姿は、我々の心の中に生じたイメージである。だが我々はそこに現実的な価値を認め、貴重な時間とお金を使い、美術館の人ごみの中に入って行く。
同様に、多くの人の心の中に共通した宗教的イメージが存在し、人の行動に影響を与えるのならば、その「現実的」な価値を認めざるを得ないだろう。
たとえその教義が科学的知見に反しているとしても、それが人の心が捉える世界の姿なのではないか。
図の出典:
http://www.k5.dion.ne.jp/~hampen/s-waza/sankaku.html
http://blogimg.goo.ne.jp/user_image/2f/5f/4150eb2c28f409a6d741af29e6539a1b.jpg