機械のからだと永遠の生命

私が小学校高学年の頃、「銀河鉄道999(スリーナイン)」という松本零士原作のテレビアニメがあった。かなりの人気番組であったし、映画版も出来たので、私と同世代の人には説明不要であろう。
地球のスラム街育ちの少年星野鉄郎が、謎の女メーテルにつれられ、不老不死の「機械のからだ」を手に入れるため、銀河超特急999に乗って旅をする物語だ。

私は、この「機械のからだ」と言うものが不思議でならなかった。もちろん、これが架空の物語であり、現実には機械のからだなど無いと言うことはよく理解していた。だが、たとえ架空の存在であっても、機械のからだと言うコンセプトが不思議でならなかったのだ。

それは一つには、当時の私がなぜか生々しく感じていた死への恐怖、自分がいつか存在しなくなることへの恐怖と関係したのだと思う。
機械のからだは、要するにロボットである。本人そっくりに作られた、精巧なロボット。その電子頭脳に本人の記憶や思考パターンを丸ごとコピーする。
しかし、もし仮に私そっくりのロボットが出来て、その電子頭脳に私の記憶や思考パターンをすべてコピーしたとしても、それは私のコピーであって、「私自身」はいつかは死んでしまう。どうしてそれで、私が永遠の命を手に入れたことになるのだろう?
小学生の私は、何度も何度も考えたが、結局理解できなかった。理解できないうちに小学校を卒業し、中学校に入学する頃には、そんなことは考えなくなっていた。

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永遠の生命、死者の魂など、肉体の死後にも残る何ものか(たましい)についての物語は、多くの宗教に存在する。死後のたましいに関する物語を持たない宗教は存在しないのではないか。だとすると、死後のたましいについて物語ることが、宗教の一つの存在理由と考えられる。実際、現代においては、これが宗教の唯一の存在理由かもしれない。

宗教が果たしてきた役割のかなりの部分は、宗教以外のものによって代替可能に見える。宇宙の起源やこの世の様々な法則を明らかにすることは現在では科学の役割であるし、倫理、道徳は、現代の多くの国ではむしろ特定の宗教から独立しているべきと考えられている。施しや弱者の救済は、主に政府や非宗教的各種団体によって担われている。悩める心への援助は、臨床心理学を学んだ職業的カウンセラーの仕事となりつつある。

唯一、死後のたましいについての説明は、科学や政治や臨床心理学の守備範囲外に放置されている。放置され、往々にして無視されているが、何千年(あるいは何万年?)にも渡って人類が必要としてきたものを、現代の我々が無視してしまって本当に大丈夫なのだろうか。


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