テーマがテーマだけに、どうしても辛気くさい話が多くなる。前回はとうとう話題が祟りにまで及んでしまった。
言いたかったことは、我々が「たましい」という名で呼んでいるものは、ある人物についての我々の記憶なのではないか、ということだ。そして、死者のたましいと我々の関わり(年忌の法要から祟り、幽霊に至るまで)というのは、我々と、死者に関して我々が持っている記憶との関係ではないか、ということだ。
そういったことを書きながら、ふと気がついたのだが、これは何も死者との関わりに限ったことではないだろう。今生きている人間との人間関係というのも、大半はその相手の人物についての記憶と自分との関係なのではないか。
例えば、私がこの連載を続け、毎週文章を書くにあたっては、風木一人氏の影響を受けている。(今この原稿を書きながらも、風木氏がこの文章に対して、どういうコメントを返してくるかな、という考えが頭の片隅にはある。)だが、今私の目の前に風木氏はいない。私の頭の中にあるのは、過去に風木氏がメールで送ってきた(と私が信じる)、私の文章に対するコメントの記憶と、その記憶に基づいて私が予測する、この原稿に対する彼のコメントである。
もっと一般的な話をしよう。会社員のAさんと奥さんはとても仲が良い。二人は常に支え合っている。Aさんが仕事で困難に直面しても、奥さんの励ましで乗り越えることが出来る。
では、Aさんが勤務中に困った問題に頭を抱えているときに、奥さんが実際に何かを言ってくれる、あるいはしてくれることがあるだろうか。普通は無いだろう。Aさんを支えているのは、奥さんがそれまでに言ってくれたこと、してくれたことの記憶である。(むろん、男女を入れ替えて、Aさんとその旦那さんとしても一向にかまわない。)
逆もまた真なりである。Bさんには、とても嫌みで目障りな同僚がいる。その同僚のせいでいつもイライラして、仕事にまで影響が出る。だが、勤務時間中その同僚が迷惑行為をし続けるなどということがあるだろうか。
人は誰でも、心の中に自分と関わりのある人の記憶を持っている。それは、個々の事実の記憶、出来事の記憶などということを超えた、人物の全体像の記憶であり、言い換えれば、ある人そっくりの小人が心の中で活動しているようなものだ。
上記のAさんの場合であれば、奥さんそっくりの小人がいつもAさんを励ましてくれる。Bさんの例で言えば、嫌みな同僚そっくりの小人が、いつも耳障りな言葉を発し続けているのだ。
そしてこの小人たちは、外界の本体が死んだ後にも生き続ける。本体がいなくなった後に残された小人たちのことを、幽霊とか亡霊などと呼ぶのではないだろうか。