古来、日本で最も有力な宗教は、祖霊と自然を崇拝する神道だった。仏教も、日本においては神道の影響を受け、先祖供養が活動の中心になった。先祖供養においては家、一族がその中心となり、逆に言えば祖霊の供養が一族の結束を固め、各個人がその一族の一員であると言うアイデンティティの基礎となったと思われる。自然の神(山の神、田の神など)の祭りは、もう少し大きな集団(村)が集まって行い、これも、村・地域の一員であると言うアイデンティティの基礎となったことだろう。
第二次大戦後このような伝統宗教が衰退し、宗教活動を支える人間集団としての家、村が衰退すると、家や村(故郷)をアイデンティティの拠り所とすることは困難になってきた。その受け皿となったのが宗教としての資本主義と、資本主義を支える人間集団としての会社だったのではないか。
昭和30〜40年代には資本主義はまさに霊験あらたかで、日本人の暮らしを目に見えてよくしてくれた。会社の人間関係は濃密で、上司が(親戚の叔父さんのように)部下の結婚の世話をしたり、社員の家族の葬式を他の社員が手伝うなど、会社と社員の結びつきの強さは現在とは比べ物にならなかったようだ。
だが21世紀の現在、経済成長神話への疑念が生まれ、人々は今までほど確信を持って資本主義を信仰できなくなった。また、人の主観的な存在意義の供給源だった会社で合理化が進行すると、社員が自分の存在意義を実感することが次第に難しくなった。短期雇用の従業員には、会社に「含まれている」などと感じようがないかもしれない。このような状況では、アイデンティティの拡散から反社会的な行動に走る人が現れたり、自分の存在意義を供給してくれそうな集団、思想に没入する人が出てきても、おかしくはない。
約20年前にオウム真理教が様々な事件を起こした時、なぜこのような教団に信者が集まるのか疑問に思った人は多かっただろう。だが、自分のアイデンティティを「本当に」見失った人にとって、真理の追究、ユートピアの実現のために「尊師」の下で修行に励む集団の一員となり、自分の存在意義を見出すことは、どれほど魅力的だったろうか(*1)。
私は、新興宗教が一概に悪いとは思わない。だが、宗教集団に限らず、濃密な人間関係で結ばれた集団が、外部と切り離された状態で活動を続けるのは、とても危険ではないかと思う。仏教にしてもキリスト教にしても、聖職者はある程度世俗から離れて修行をしても、世俗との関わり抜きでは宗教活動が成り立たない。世俗との関わりこそが伝統宗教の健全性を保ち、「新興」の二文字が「伝統」に変わるまで持ちこたえさせたのではないだろうか。
*1 村上春樹は著書「約束された場所で」で、オウムの信者、元信者8人にインタビューしている。全員ではないが多くが世俗での「わかってもらえなさ」、「居場所のなさ」を語っている。ただし、ほとんどの人は異常な体験というほどのことはなく、逆に言えば誰でも彼らと同じような道を進む可能性があったのではないかと思える。