子曰く 詩三百、一言もってこれをおおえば、曰く、思い邪(よこしま)無し (為政編二)
「詩三百」と言うのは、「詩経」に掲載されている詩のことなのだろう。現在残っている詩経と、孔子の時代の詩経が同じかどうかはよくわからないらしいが、現存のものには三百五編が載っているそうである。
孔子は常々弟子たちに、詩の重要性を説いている。と言っても、自分で詩を作るということではなく、「詩経」に載っているような有名な詩を暗誦するということである。論語の中でも「詩に興り、礼に立ち、楽(がく)に成る」(泰伯八)「何ぞかの詩を学ぶ莫(な)きか」(陽貨八)などの言葉がある。
官僚養成塾であった孔子学団において、なぜ詩がそんなに重要視されたのだろうか。そもそも当時の詩とはどのようなものであったのだろうか。
興味を覚えたので、講談社学術文庫の「詩経」(目加田誠 著)を買ってみた。
おそらく、古の有徳の王を讃える詩とか、「正義のために戦うぞ!」式の勇ましい詩が並んでいるのかと予想していたのだが、(まあ、たしかにそのような詩もあったが)意外にも恋愛の詩、若い男女が誘い合うような詩が数多く入っていた。その他、農民が生活苦を嘆く詩とか、自然や生活を歌った詩も多い。
目加田氏の解説によれば、これらの詩は、多くは節をつけて歌われたものであり、踊りがつくこともあった。いわば民謡、folk songのようなものであろう。とするとこれは暗誦ではなく歌唱するものであったわけだ。
孔子には、彼がある地方の行政長官を務めたところ、あっという間に風紀が整い、「男女が分かれて道を歩くようになった」、という伝説まであるくらいで、孔子や儒学にはとてもお固いイメージがつきまとう。その彼らが、若い男女の恋愛歌を歌っていたところを想像すると、なかなか微笑ましいものがある。映画「サウンド・オブ・ミュージック」のトラップ大佐を思い浮かべるのは少々行き過ぎだろうか?(行き過ぎだろう。)
冗談はさておき、孔子が弟子たちに教えたのは、いわゆる政治の理論や技法というよりは、道徳、為政者としての心構えであり、その基礎としたのは人の自然な感情であった。そうした人の感情を理解し、自らの感情を磨くために、詩歌を学ぶということが重要とされたのだろう。
現代の日本で言えば、松下政経塾の塾生がみんなで中島みゆきを歌うようなものだろうか。となるとかなりの歌唱力が要求される。君子になるのもなかなか辛いものである。