なにわぶし論語論第66回「死生命あり、富貴は天にあり」

司馬牛、憂いて曰く、人皆兄弟(けいてい)あり。我独り亡(な)し、と。子夏曰く、商(しょう)之(これ)を聞けり。死生(しせい)命(めい)有り、富貴は天に在り、と。君子敬して失うこと無く、人と恭しくして礼有らば、四海の内、皆兄弟為り。君子何ぞ兄弟無きを憂えん、と。
(顔淵 五)

――――司馬牛が落ち込んで言った。「人には皆兄弟がいるのに、私にはいない。」
それを聞いた子夏(商)が言った。「私はこういう話を聞いた。人の生き死には天命で決まる。財産を得るかどうかも天命で決まる。(すべてのことは天命で決まるのだから、気に病んでも仕方がない。そういうことでくよくよせずに、) 君子たるもの、人を敬って、失礼がないようにし、人に対して謙遜して礼儀正しくしているならば、世界中が皆兄弟だ。なぜ実の兄弟がいないことを憂える必要があろうか」――――

じつは司馬牛には兄がいたそうである。いろいろ事情があって、散り散りになっていたので、事実上兄弟がいないようなものであった。むしろ、いるはずの兄弟と生き別れになったことで、より喪失感が大きかったのかもしれない。嘆く司馬牛を子夏が慰めるのだが、そのときに言った言葉が、「死生命あり、富貴は天にあり」である。たぶん孔子から聞いた言葉なのだろうが、実に良い言葉だ。

「生きるか死ぬか、儲かるか損するか、すべて運命だから気にするな。真面目にやってりゃ、いいこともあるさ。」ということである。司馬牛の場合は、すでに起こってしまったこと(兄弟を失ったこと)を嘆いていたわけだが、未来について言えば、「これからの行動が成功するか失敗するか、得するか損するかなんて気にするな、君子としてふさわしい態度でさえあればいい」ということにもなる。結果にコミットしないのである。じつに清々しいではないか。

結果にコミットしすぎると、雑念が入る。うまくやってやろうと考えると、かえって失敗することもある。現代のスポーツ選手たちが「勝敗は考えずに、ベストのパフォーマンスをすることだけに集中します」と言うのと似ている。孔子の弟子たちにすれば、ベストのパフォーマンスとはすなわち、君子であることである。

「死生命あり、富貴は天にあり」とつぶやき、続けて「王の腹から銀を打て」とつぶやけば、なんだか伸びやかな気分になってくるではないか。
なってきますよね?

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