なにわぶし論語論第27回「女(なんじ)は器なり」褒める力

「子貢問いて曰く、賜(し)や如何、と。子曰く、女(なんじ)は器なり、と。曰く、何の器ぞや、と。曰く、瑚璉なり、と。」 (公冶長 四)

――――弟子の子貢が孔子に訊いた。「私は一体何なんでしょう。」 孔子は答えた。「おまえは器(うつわ)だ。」 「なんの器ですか?」 「瑚璉(王の副葬品として使われる最高級の器)だ。」――――

教師の最も重要な仕事の一つは、生徒を褒めることではないだろうか。もちろん、生徒の欠点を見つけたときは、貶(けな)す、というか欠点を指摘することも重要だ。それに比べると、知識を与えたり手本を見せたりというのは、ある程度必要ではあるが、最重要とはいえない。ブライアン・オーサーが羽生結弦に4回転ジャンプの手本を見せることはできないのだ。

褒めるにしても、貶すにしても、タイミングが大切だ。生徒が何かをしたら、直ちに、きっぱりと褒める、あるいは貶す。その点、この逸話における孔子の褒め方は完璧だ。
子貢が自信を喪失して、「私(賜は子貢の本名)は一体なんなんでしょう」と言ってきた瞬間に「お前は器だ」と言い切る。「大器」と言う言葉もあるように、「器」には人間の才能という意味があることは、子貢もわかっていたはずだ。だが、まだ訝しい気持ちが残っている。そこで「何の器ぞや」となるわけだ。孔子はここで中途半端なことは言わない。「瑚璉」という最高級の器の名を出して褒めるのである。
このタイミング、この勢いで褒められれば、嘘でもやる気が出ると言うものだ。もちろん、孔子がこれだけ褒めたのは、彼が子貢の才能や努力を認めていたからだろう。逆に孔子が弟子をけなす時には、やはりきっぱりと容赦がない。ただし、少しばかりのユーモアも忘れない。なかなか面白いので、そのうちご紹介したい。

実際に我々が人の指導をしてみると、なかなかこれだけきっぱりと褒めることは難しい。「ちょっと褒めすぎじゃないかな」とか、「間違っているかも」と思うと、判断も言葉も鈍る。
孔子が褒め上手(貶し上手)なのは、一つには自分が誰よりも相手を良く見て知っているという自信があったのだろう。また、自分が指導するのは自分の利害のためではなく「道」のためである、あるいは、自分は「道」の判断を言葉にしているだけだ、という一歩引いた気持ちがあるのではないだろうか。
私も教員だが、褒めに限らず自分の指導する学生に意見を言うときは、どうしても「尊敬されたい」とか「結果が悪かったらどうしよう」とかいう雑念がチラついてしまう。よその学生には、もっと気楽にアドバイスできるのだが。
なかなか君子への道は遠いのである。

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