なにわぶし論語論第38回「恭にして礼なければ すなわち労す」 

子曰く、恭(きょう)にして礼無ければ、則(すなわ)ち労す。慎にして礼無ければ、則ち葸(し)す。勇にして礼なければ、則ち乱す。直にして礼無ければ、則ち絞(こう)す。君子、親に篤ければ、則ち民、仁に興(おこ)る。故旧(こきゅう)遺(わす)れざれば、則ち民うすからず。(泰伯 二)

――――孔子の言葉。へりくだる気持ちがあっても、礼法を知らなかったら、(気持ちを表現できず、やみくもにへりくだって)疲れるだけである。慎み深くても、礼法を知らなかったら、おどおどするばかりである。勇気があっても、礼法を知らなければ、社会秩序を乱す。まっすぐな気持ちがあっても、礼法を知らなければ、窮屈だ。君子が親類に手厚くしていれば、民の間にも思いやりが生まれる。旧知を忘れないでいれば、民も人情が薄くはならない。――――

最後の2行はそれ以前とちょっと違うなと思ったら、やはりこれは別の章であるとする見方もあるそうだ。
やたらと形式張った礼儀にうるさい、と言うのが、儒教の嫌われる一つの理由だろう。
儒教は「礼」(儀礼、礼法)を重視する。この節で「礼」と言っているのは、特定の儀礼のことではなく、マナー全般と考えて良いだろう。孔子はやたらと礼にうるさいかと思うと、真心があれば形式は少し崩れているくらいで丁度良いと言ったりもする(たとえば八佾 四)。まことに然りで、真心が大事で、礼儀作法などはどうでも良い、とは行かないところが人生の辛いところである。
大切な人のお葬式に呼ばれて、焼香のし方を知らなかったら、困ってしまう。あるいは、正式なフランス式のディナーに招待されて、テーブルマナーを全く知らなかったら。いくら真心があっても、あるいは真心があるほど、困ったことになるだろう。いくら勇気があって、正しいことをしようとしても、喫茶店で女性記者にセクハラをしているおじさんを店の外に引きずり出して、ボコボコに殴ってはいけない。絶対にいけないのである。

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