宗教と集い(3)葬儀における語らい。喪失感の共有、たましいの再構成

昨年私は、葬儀に1回、「お別れの会」に2回出席した。いずれの集いでも、故人について、いろいろな思い出、出来事が語り合われた。当たり前だといわれるかもしれないが、語られるのは故人についての良い話ばかりであった。一部悪い話があったとしても、それは笑える話、微笑ましいエピソードとして語られた。葬式で故人の悪口を言うのは、おそらく世界中のどの国でも無作法なこととされているのではないだろうか。だが、作法無作法は措くとして、故人の悪い面について語ることは、あまり意味がないのではないだろうか。一人の人が死ぬということは、良い面も悪い面も含め、その人のすべてが失われることだ。だが、我々は、自分に関わる何か良いものが失われたときに、喪失感という負の感情を体験する。その感情を皆で共有して、和らげようとするのが、葬儀における語らいの一つの意味ではないだろうか。

もう一つ、葬儀に多くの人が集って語らうことの意味として、「たましいの再構成」ということもあるのではないだろうか。

私は第15回で、「たましいとは、人の行動様式、思考様式、経験など、その人を他者と区別する属性についての記憶である」という考え方を提案した。平たく言えば、その人の「人となり」についての記憶である。だが、ある一人の人の「人となり」について、あらゆる面を完全に把握している人はいない。故人との関係は人それぞれであり、故人について記憶していることがらも人によって異なる。私が出席した集いでも、私が知らない故人の一面を聞かされて、へえと感心したり、逆に私が語った故人の思いでが他の人を驚かせたりもした。

もちろん、どんな人でも生きている限り変化し続けている。嗜好も、考え方も、時間とともに変わる。だが、そういった経時変化を無視するとしても、ある人の「人となり」を誰かが完全にわかることはないだろう。だからこそ、例えば何十年も一緒に暮らした家族であっても、ある時突然、「ああ、この人にこんな面もあったのか」と驚かされることがある。
ある一人の人が生きていて、あなたがその人との関わりを続ける限りは、あなたの持つ、その人についての知識、記憶は、常に更新される可能性がある。そして少しずつ、あなたの記憶の中に存在するその人の姿はその人自身に近づいて行くだろう。
だが、その人が死んだら、あなたがその人と直接に関わり、その人に関する知識を更新するチャンスは極端に少なくなる。葬儀に故人の関係者が集い、語り合うことによって、一人一人が持っている、故人についての知識を補完し合い、故人の「人となり」をより完全に知ろうとする、言い換えれば、故人のたましいの完全な姿を再構成しようとする、それも葬儀に人が集い語らうことの意味の一つではないだろうか。

なお、冒頭で指摘したように、葬儀では主に故人の良い面が語られるが、そうすると、再構成された故人のたましいの姿は、本人が生きていたときよりも良くなるわけである。人は死んだら仏になる、成仏するとは、こう言うことを指すのではなかろうか。(こんなことを言うと、お坊さんには笑われるかもしれないが。)
(つづく)


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