風木オーナーから提起された、宗教と芸術の関係についての問い(第36回参照)に対して、私はこれを「神話と物語」という問題にすり替えて考察してきた。
だが、もちろん芸術というのは物語(文学)ばかりではない。美術や音楽もある。また、料理もしばしば芸術と呼ばれることがある。このような芸術一般について議論することは、私の能力をはるかに超えているが、せっかくの機会だから、これらについて考えたこと思いついたことをブレインストーミング的に列挙してみたい。
「芸術」と言われて、私がすぐに連想するのは「美」ということである。芸術は美しいものと考えるのが普通ではないだろうか。だからこそ、ある種の現代美術、現代音楽、ヘビーメタルなどのハードロックに違和感を覚える人が多いのだろう。
このような「新しい」芸術は、我々の伝統的で素朴な美意識とは相容れない。(ハードロックは、もっと素朴なリズム感覚、ビート感覚に強く訴え、高揚感を生むが、一般的な意味での「美しさ」とは異なるものだろう。)
「美」とは面白い性質だ。たぶん性質と言って良いのだろう。五感で言えば、視覚と聴覚という全く別な感覚モダリティに関わる。美味ということまで含めれば、味覚嗅覚にまで広がる。視覚に関わる美だけを考えても、美しい色というのもあるし、美しい人の顔は、白黒写真にしても美しい。最近流行りの言葉で言えば、「共感覚」ということになるか。
宗教は、しばしば芸術とともにある。教会のステンドグラスや壁画、金色に輝く仏像や曼荼羅など、宗教美術の例はいくらでもある。宗教音楽の代表はキリスト教の聖歌か。神道には、キリスト教や仏教ほど豪華な美術はないが、森に囲まれた神社の姿そのものが美しい。森の中の社の姿、白木の美しさ。このような神道の美意識は、日本の伝統的芸術の精神とも通底するように思える。
宗教が芸術とともにあるということは、宗教が芸術を利用しているとも解釈できる。16世紀の宣教師たちは日本の大名に取り入るために鉄砲などの新しい技術を利用したという話もあるが、同様に芸術も布教に利用されたであろう。
「利用」などと言うとあざとい感じがするが、宗教の教えを人々に知らしめる手段として絵画、音楽などの芸術的表現が千言万語に勝ることは容易に想像できる。
一方で、美はもっと宗教の核心に近いものではないかという気もする。ヌミノーゼ(「聖なるもの」に触れた時の特別な感情的体験)を宗教の本質とする考え方もあるようだ。
私自身はそのような体験をしたことがないから、あくまで想像だが、教会のステンドグラス、三十三間堂に並ぶ金色の仏像などをみた時、グレゴリオ聖歌を聞いた時に感じる荘厳さは、ヌミノーゼというものにある程度近いのではないだろうか。
逆に言えば、ヌミノーゼ体験をした者が、その体験を表現しようとすると、美というものになるのではないだろうか。
世俗の芸術家も美を求める。宗教芸術における美と世俗の美は結局のところ同じものなのだろうか。それとも別のものなのだろうか。
ああ。風木オーナーから発せられた問いに戻ってしまった。