「子曰く、知者は水を楽しみ、仁者は山を楽しむ。知者は動、仁者は静。知者は楽しみ、仁者は壽をもてす」 (雍也編二十三)
三文で起、承、転結のパターンである。冒頭でいきなり、「知者は水を楽しみ、仁者は山を楽しむ」。はあ、そういうものですか(?)、と思っていると、「知者は動、仁者は静」。なるほど。知者は「動」だから、動く水を楽しみ、仁者は「静」だから、動かない山を楽しむわけですか。なるほどなるほど。現代でも、人を犬派と猫派に分けたりするが、似たようなものだろうか。だが、人を知者と仁者という二つのカテゴリーに分けるというのは、ちょっと無理があるのではないか。私のように知者でも仁者でもない人はどうなるのだろうか。
ここは少し読み方を変え、知者を「知なるもの」、仁者を「仁なるもの」と読んでみてはどうだろう。いわば「知性」と「仁性」である。人なら誰でも、ある程度の知性を持っている。また、誰でもある程度は「仁性」すなわち思いやりの気持ちや道徳性を持っている。知者、仁者というのは、異なる人間のカテゴリーではなく、一人の人の中に共存する性質というわけだ。孔子の言葉はこの二者を対比しているが、知と仁は、ときに対立することがある。たとえば、死にかけた患者を前にした医者の知性は「これ以上の治療は無意味だ」とささやき、仁性は「最後まで努力しなさい」と叫ぶかもしれない。どちらが正しいかは一概に決めがたいが、どちらかというと医者は知に傾きやすいので、「医は仁術」という警句ができたのではないだろうか。
知者は「動」であり、「楽しむ」ものであると言う。頭を使って状況の変化に機敏に反応し、未来を予測し、そういった知的な活動を楽しむ。まさに知性の醍醐味である。一方で仁者は「静」であり、「壽をもてす」。時代が移っても変わらない、人間の基本的な性質や感情、そういったものに基づいて作られた道徳を大切にし、平和に生きる。「壽をもてす」とは基本的には長生きすると言う意味だが、波乱を避けて平和に生きると解釈して良いだろう。
ここでは知者と仁者は一人の人の中に共存する性質と捉えるが、職業によっては、一方がより重視されることもある。医療、福祉の仕事をする人は仁者であるべきだと誰もが思う。先日亡くなられた日野原重明先生などは、仁者のイメージにぴったりだ。だが、彼はなかなかのアイディアマンであり、活発に様々な活動を実践されていた。その意味ではとても動的な知者である。一方で、一般に知者とみなされる職業の代表は科学者だろう。科学者には、新しい発見を求めて活動的に研究を楽しむ「動」的な知が必要だが、知の探求という、紀元前から続く人間の営みを受け継ぎ、時代が変わろうと、政府の方針や世の中の流行が変わろうと関係なく研究を続けるという意味では極めて「静」的でなければならない。
常に知と仁、動と静のバランスを取るのは難しい。君子は辛いのである。