「ごき」というのは、例の昆虫のことである。自分の文章のタイトルに4文字をまるまる載せるのは抵抗があったので省略して最初の2文字にした。後ろの2文字にしようかとも思ったが、わけが分からなくなるのでやめた。
初めにお断りしておくが、私はこの虫が嫌いである。私は、生物の多様性は大変重要だと考えているが、この種だけは絶滅してくれても全く構わない。明らかな差別だが、読者の94%くらいは許してくださるのではないかと期待している。私は、この虫が好きだという人間に会ったことがない(*1)。
私の大学生時代の友人H君も、この虫が大嫌いだった。H君は、私と同じ下宿に住んでいた。我々の下宿は、全室6畳一間(一部屋だけ5畳だったか)、当時としては珍しく全室フローリング。共同の風呂と台所もついていた。
まだ風呂なしの下宿の方が多い時代だった。下宿人は皆とても仲が良く、何人かで一緒に食事を作って食べるということも珍しくなかった。
ある夏の日、その日はH君と私、二人で一緒に晩飯を食べた。私の部屋だったと思う。メニューまでは覚えていないが、二人とも気持ちよく飯を食べ終え、雑談をしていた。たぶんビールでも飲んでいたのだろう。
なぜか話題が、例の昆虫のことになった。我々の下宿は、なかなか住み心地が良く、住人は皆気に入っていたが、たった一つ問題があるとすれば、夏になると毎日のようにその昆虫が出現したことである。
「ここ、アレが多いよな。」
「まったくな。アレさえいなけりゃ、何も文句はないんだけどな。」
「俺、アレ大っ嫌いなんだよな。」
「俺も俺も。」
「大家さん、なんとかしてくれないかな。」
「そりゃ無理だろう。」
話は大いに盛り上がったが、けっきょく何か解決策があるわけでもなく、ひとしきり互いに愚痴を言い合っただけであった。
ビールを飲み干し、テーブルの上を片付け、洗い物をするために二人で台所に行ったところ、流しの蛇口のところに、いたのである、話題の昆虫が。
二人ほぼ同時に気がついたのだと思う。だが、先に声を発したのはH君だった。
「なんだっ、気持ちわりい。」
だが、その次の彼の行動に、私は完全に声を失った。彼は迷う様子もなく右手を伸ばし、はたいたのである、その虫を。
彼にとっての「大っ嫌い」とか「気持ち悪い」というのは、その程度のことであったのだ。私なら、化学兵器(殺虫剤)で攻撃して、ほうきとちりとりで死体を片付けるのも嫌々ながら、ということになる。手で叩くなんて考えることすらできない。同じように「気持ち悪い。大っ嫌い」と言っても、その言葉が表すものには、これほどにも幅があるのだ。
この出来事によって私は、言語による相互理解というものは単なる幻想ではないかと、深く考えさせられたのだった。
今も私の周囲の人たちはほとんどが「ごきは嫌いだ」と言うが、よくよく聞いてみると、「好きか嫌いかときかれれば、嫌い」という人から、「見たら叫んで逃げる」という人まで、程度はさまざまだ。それを「嫌い」という一つのカテゴリーにまとめると、「みんな一緒」という感じになってしまうところが、言葉の恐ろしいところだ。
すでに1200文字を超えてしまった。英語の話は、また来週に。
*1 後から思い出したが、私の知り合いに「ごきって、可愛いじゃないですかあ」と真顔で言う美しい女性がいた。人類の多様性には計り知れないものがあるのである。
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