家系図調べと祖霊崇拝と永遠の生命と(6)

前回まで、「自分の存在を主観的に永遠化すること(より宗教的に表現すれば、永遠の生命を手に入れること)が宗教の一つの役割なのではないか。その意味では、家系図調べも、自伝の執筆も宗教的行為と考えてよいのではないか」と言う結論に向かって、やや強引に筆を進めてきた。

年を取ってから急に家系図に凝りだす人、自分史や一族の歴史の本を書く人、新しい墓や記念碑を作る人。そういう人たちを身近で何人も見てきた。
中には、若いときには年寄りがそのようなことをするのを笑って見ていながら、自分が年を取ると結局は同じようなことを始めた人もいた。
「そういうものなのだなあ」と思っていた。学生時代にツーリングの途中で通った田舎の町の小さなお寺の前で見た立て札の文句を思い出した。

「子供笑うな、来た道だ。年寄り笑うな、行く道だ」

私もいずれは、実家のどこかにある家系図を引っ張りだして丹念に眺めるようになるのかもしれない。(注1)

それとは全く無関係に、数年前、仕事帰りに駅に向かって歩いているときに、「医学が進歩して、なかなか人が死ななくなったが、それでも人が一生に死ぬ回数は全く変わっていないのだ」と言うことに突然気がついた。
なぜそんなことを考えたのか、全く思い出せない。
考えてみれば、ごく当たり前のことなのだが、私には大発見のように思われた。医学の進歩のおかげで、中年以下の人はほとんど死ななくなり、高齢者ばかりが死ぬようになったのである。

若い人が死については全く考えることもなく、生を謳歌しているときに、年老いた人だけが静かに死に向き合っている。これは非常に不公平なことのように思われた。
無論これを「差別」と呼ぶことは出来ない。誰もがいずれは公平に年を取るからである。
問題があるとすれば、現代の我々の多くは若い間に自分や身近な人の死と向き合うことの無いまま高齢者となり、自分の死と直面する、と言うことである。

そういうことを考えているうちに、高齢者の家系図調べも自分史執筆も、一種の宗教的行為なのではないかと考えるようになった。
そして、「自分と先祖から子孫へ続く世代の連鎖を同一視することによって、主観的に自分の存在を永遠化することが、宗教の一つの役割である」という考えが次第にはっきりとしてきた。
これが宗教の一つの役割であると私は考える。宗教にはその他にもたくさんの役割があることは言うまでもないだろう。専門家でない私には、宗教全体について、事実に基づいて包括的な議論をすることは出来ない。
ただ、21世紀初頭の日本という伝統宗教のきわめて弱体化した社会にたまたま生きている人間として、個人的に見聞きしたこと、考えたことを文章にまとめてみた次第である。

次回からしばらく、これまでに書けなかった事柄について書いて行きたい。もうしばらくお付き合い願いたい。

(注1)
先日、実家で古いものの片付けをしていたら、我が家の家系図が出てきた。まだ、詳しく読む気にはならなかったので、そのまましまっておいた。


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