【 魔の終活 】
私事で恐縮だが、私はいま64歳で、この5月に65歳となる。65歳と言えば、世間では退職である。私と違って長年にわたり営々と会社に尽くしてきた友人たちは、一斉に退職準備に入っている。みなさぞかし清々したいい気分だろうと思っていたのだが、どうもそうでもないようだ。意外というか、さっさと終活ステージに入ろうとしている友人が何人かいる。
「終活」という言葉はすでに御存知かと思う。一般的によく使われるようになったのは割と最近で、2010年ごろである。私の印象では、日本でこの言葉が定着するようになったのは、2011年の邦画「エンディングノート」(砂田麻美・初監督作品)あたりからではないかと思う。その後、流行語大賞候補にも上がるようになった。単なる流行語としてやがては消えゆく言葉なのか、あるいは今後、日本人が日常的に当たり前のように使って行く言葉となるか、それはわからない。
それにしても「退職イコール終活ステージ」というのはあまりにも寂しいというか、やりきれない。ここにも新型コロナウィルスで散々に痛めつけられた結果、「人類の未来は明るくない」というダークシャドウの蔓延が忍び寄っているのだろうか。暗い未来と直面するぐらいなら、さっさと泉下に逃げた方が得策だとでもいうのだろうか。そうした意気消沈気味の友人たちを居酒屋に引っ張り出して、くだらない話をいっぱいし、抱腹爆笑、励ましてやりたい気分は山々だが、この御時世では居酒屋に行く気もしない。誠に生きづらい時代だ。
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さて本題。
今回は「早すぎる終活準備」の同級生友人たちに向けて、最も過激にして華々しく散っていった我々の祖先を「終活」というテーマで語りたい。
あなたは「魔の終活」と言えば、どんな終活を連想するだろうか。
そもそも終活とは「自分の死と向き合う」ことから始まる。向き合ってどうするのか。「かくありたい」という希望というかビジョンが生まれる。「かくありたい」というよりも「かく終わりたい」というべきか。「死ぬときぐらい好きにさせてよ」という樹木希林さんの言葉も浮かんでくる。そうしたビジョンなりイメージなりをきっちりと実現させるべく準備に入る。終活とは、まあそういうことだろうと思う。
そこに「魔」がつくほどの終活とはどんな終活か。やはりそこには壮絶な決意がなくてはならない。そうした点で、私が今回から3回にわたり語りたいのは、
織田信長(1582年/49歳で死亡)
土方歳三(1869年/34歳で死亡)
そしてついでながら、
アドルフ・ヒトラー(1945年/56歳で死亡)
さてこの3人。なんで「魔の終活」なのか。
一見、なんの繋がりもない3人に見える。しかしじつは共通した終活がある。
それは自分がやってきた行動に対し、
(1)ものすごく恨みに思っている人間が、ものすごく多いことを承知している。
(2)したがって自分が死んだら、一刻も早く自分の死体を地上から消してしまわないことには、なにをされるかわからない。
(3)死ぬ直前には、いよいよそれを心配して、絶対に死体を残さないように周囲の人間に手配した。
(4)その終活は見事に実行され、死体は(血眼で探されたに違いないが)ついに発見されなかった。
……という点である。ここまでくるともう、「終活」というよりは「死亡直後の予想と対策」といった方がいいのかもしれないが、ともあれ今回は織田信長について、終活という視点から語りたい。
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【 織田信長の終活 】
さて信長。日本では戦国時代と言えば、この男である。歴代のNHK大河ドラマでも、チラッとでも信長登場のシーンはググッと視聴率がアップするそうな。
なんの本で読んだのか忘れてしまったが(たぶん海音寺潮五郎氏の談話だったと記憶している)、古来より日本人が好む英雄像には共通した生き様があるという。
まず1つ目は、個人的な私利私欲に走らず、大義に生き、理想に向かって邁進したこと。
次に2つ目は、最終的な目標に達する直前で、無念の死を遂げたこと。
そして3つ目は、その死がまだ若い時代であり、悲惨であったこと。
なるほど言われてみれば、という感じで、私の場合はこの3項目を見てまず浮かぶのは武田信玄であり、上杉謙信であり、そして織田信長だ。
この3人の中でも信長の人気がダントツに高いのはなぜか。それはやはり「謀反/裏切り」という彼の人生最大のしっぺ返しを喰らった上に、戦死、炎上、死体消滅という「最後の壮絶さ、潔さ」が日本人の心に響くのだろう。謀反人が明智光秀と知った時に吐いたとされる彼の最後の感想「是非に及ばず」も、いかにも無念さを語っているように思える。
ところが……
最近の研究では、この有名な言葉も、信長の人間像も、かなり違った解釈をしている研究者たちが多いことをご存知だろうか。というのも、信長はあまりにも激しい人生を送ったが故に、後世、それぞれの時代で「都合よく解釈、あるいは変更、あるいは捏造」されてしまった部分がすごく多い武将ということらしい。
そこで「真の信長像に迫りたい」と願う研究者たちは、後世の人間が書いたものをそのまま右から左に信用はしない。特に秀吉が書いたものは最も信用しない。もっぱら「これは信長本人が書いた書簡に違いない」というものだけを信用している。
しかしそれだけでは謎は深まるばかりだ。そこでやむなく「これはまだ信用度が高い」という「信長公記」(しんちょうこうき)に照らし合わせて推測している。これは信長の家臣だった太田牛一が書いたものなので、もちろん「信長びいき」はあるに違いない。しかし他のものに比べて最も客観性が高いというのだ。
さて「是非に及ばず」。
太田牛一は本能寺から逃げた女たち(信長の身の回りの世話をしていた女たちらしい)を取材している。そして牛一はこう書いた。
是非に及ばずと、上意候
上意とは命令である。つまり「是非に及ばず」と家臣に命令した、というのだ。
「是も非もない。とにかく戦え!」
これが正しい解釈ということらしい。そして敗れた。逃げなかった。
その直後に信長が命じた最後の上意、自分の死体が残らないようになにもかも燃やせという命令、これがすなわち彼の終活だった。
彼がこよなく愛し、たびたび舞ったと言われる幸若舞(こうわかまい)の一節「人間五十年」の直前、49歳の生涯だった。
(余談)
もうひとつ、最近の信長論で面白いのは、彼が好んで使用した印鑑の4文字「天下布武」をめぐる解釈だ。従来の解釈では「天下を武力で制圧する」と解釈するのが通例であり、これがまた信長のイメージとピタリと合致したというか「いかにも信長」とされてきた。
ところが最近、この「天下」をめぐる解釈に新たな議論が巻き起こっている。新説ではこれは「日本全国」ではなく室町幕府のお膝元、すなわち五畿内(山城国・大和国・河内国・和泉国・摂津国)だというのだ。いまの時代で言えば、京都・大阪・奈良・兵庫ということになろうか。
信長はなぜこの五畿内にこだわったのか。それは彼が目指したのは「全国統一の野望」ではなく「室町幕府の再興」だったというのだ。研究者によっては「信長は全国を制覇するなど、一度も考えたことはなかったと思います」と言っている。
さてこうなると信長のイメージはガラリと変わってくる。真っ先に異議を唱えるのはゲームメーカーかもしれない。麒麟大河ドラマの信長は異色だったが、事実はさらに異色だったのかもしれない。泉下で笑っている信長のみぞ知る。
……………………………………* 魔の終活/信長編・完 *
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