【 魔のウィルス 】19

【 神は御覧になっている 】

今回はBB話題からちょっと外れ、いまひとり、別のイタリア人の話をしたい。その男を仮にRDとしよう。RDは画家であり彫刻家であり、美術学校の講師でもある。奥さんがいて一人娘がいる。そして新型コロナウィルスに感染した。

「感染経路の心当たりはあるのか?」
「そこなんだよね。病院ではかなりひつこく聞かれたらしい」

RDは即座に病院に隔離され、医師と看護士以外は面会謝絶となった。
「フィレンツェ在住の友人」を介してRDから話を聞き、それを「魔談」に掲載するにあたって、RDは2つの条件を出してきた。
「人物を特定できないこと」
「RDに関する話のみイタリア語に翻訳し、本人にメールで送ること」
極めて妥当な条件だと思ったし、「人物を特定できないこと」はむしろ条件として出されるまでもなく、そうするつもりだった。

さて感染経路。RDとしては思い当たる件が2件あった。2件ともカフェ。
「つまりどっちかのカフェで感染した?」
「まあそういうことだね」
「そのカフェの感染者、ほかにも出たのか?」
「両方とも数人出てる」
「やれやれ、RDはヘタしたら複合感染だな」

RDが入院隔離となった直後に、そのカフェは当然ながら営業停止となった。幸いというか、RDが入院した病院には「COVID19のための専用隔離病棟」がすでにあり、感染症入院患者受入病床数にはまだ余裕があった。

「感染症入院患者受入病床数。なんだか漢詩みたいだな」
「まったくだ。人類破れて山河あり」
「地球は喜ぶかもね」
「温暖化も完璧にストップだしな」

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話はここからが本題である。観念したRDは、奥さんに頼んでハードカバーの長編小説4冊を届けてもらった。
「それぐらいは許されるわけだ」
「まあそうだろう。詳しいいきさつは知らんが」

なにしろ部屋から一歩も外に出ることは許されない。トイレもナースの監視つき。RDは怪我や病気でさえ入院した経験は一度もなかったので、この長期にわたる入院は、彼の人生において「特筆すべき一大事」となった。

「症状は出なかったのか?」
「微熱が続く程度。特にどうこうということはなくてね、ただなにを食べても味がない」
「それはきついな。ウィルスに味覚を奪われたわけだ」
「しかしもともと食にこだわる男じゃない。むしろ酒を飲めないことが、精神的にこたえたらしい。夢にビールやワインが出てきたそうだ」
「心から同情するよ」

しかしそうした禁欲生活も、1週間ほどですっかり慣れたという。
「驚いたことにね、むしろ毎日が楽しいらしい」
「楽しい!……いったいなにが?」

仕事や生活や家族や将来のこと。そういうことを一切考えない生活。あらゆる雑事から解放されて、自分のことしか考えない生活。それがすごく斬新だったらしい。もちろん最初はあれこれ考えたり悩んだりしたのだろう。しかしそのうちに疲れてきた。なにもかもどうでもよくなった。

「絵を描くこともできない。しかしそれにも慣れてしまったら、意外なほど平気な自分に気がついたらしい」
「絵を描くのも禁止!……ずいぶんだな」
「あいつは油彩なんだよ」
「そりゃアカンな。……で小説の世界に没頭した?」
「ついでに〈こんなまずい物、食えるか〉気分がさらに進んで〈じつはこれも以前からやってみたかった〉気分で、断食までやろうとした。医者にひどく怒られたらしい」
「面白い男だな。前向きなのがいいな。しかしその状況で断食はさすがにまずいな」
「あきれる医者にむかって平然と〈神は御覧になっている〉と言ったそうだ」
「いいね。いいセリフだね。なかなかそういうセリフは、日本人からは出て来ないね」

この話を聞いた後で、ふと自宅の本棚を眺めた。「いずれこれをじっくりと読みたい」と願ってきた(ぶあついハードカバーの)長編小説や、何巻にもわたる長編時代小説が最下段にある。ずいぶん前から「60を過ぎたら」とか「移住したら」とか思いつつその背表紙を眺めてきた。しかし時はどんどん過ぎ、60も越したし、移住もした。仕事も大幅に減らした。しかし山奥に移住して4年と4ヶ月が経過したが、いまだに実現できていない。
「人生、なにが幸いするのか、本当にわからんな」
ふとそう思った。

……………………………………    【 つづく 】

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