【 謎の1シーン 】
あなたが50歳以上であれば、こんなことはないだろうか。たとえば友人と雑談を楽しんでいて、映画の話になったとする。「ほら、こんな映画で……」と主演の男優や女優の姿やシーンは頭の中でありありと再現できているのに、肝心の映画タイトルが出てこない。男優や女優の名前もすぐに出てこない。映画好きの友人も「そういえば、そんな映画があったねぇ……」てな具合で、やはりタイトルも役者名もわからない。そのまま双方無言でいるのもどうかと思うから、「忘れちゃったねぇ」とか軽く笑い飛ばして、さっさと別の話題に移る。よくある話だ。
しかし最近、私は自分の記憶に対してある実験を試みることがある。友人との席ではその映画のタイトル追求はそのまま流れてしまったのだが、自宅に戻ったとき、「そうだあの時、とうとう映画タイトルは出てこなかったな」とふと思い出した時、ネット検索ですぐに調べるようなことはしない。スマホもコンピュータも使わない。ソファにゆったりと座って目を閉じる。一種の瞑想状態に自分を置くのだ。周囲には誰もいないから、誰にも気を使う必要はない。時間も半時間や1時間ぐらいなら、瞑想に使っても生活にはなんの支障もない。
目を閉じてどうするのか。映画タイトルも、男優や女優の名前も、必ず自分の内部に記憶として残っているはず。まずはそう信じることが前提だ。問題はその言葉に行き着くまでの回路が、一部、錆びている(笑)のだ。そのように信じ、閉じたまぶたの裏側でその映画のシーンを徹底的に思い出す努力をする。DVDを持っている映画なら、そのパッケージデザインも記憶にあるはずだ。映画館で見た映画なら、その映画のポスターを劇場ホールで見たはずだ。
そのようにして、その映画に関するあらゆるあらゆる記憶の糸をさぐってみる。ある程度の根気もいる。私の経験では10分や15分程度ではまず出てこない。半時間ほどやって「なかなか手強い」と苦笑し、また次の日に半時間ほどやったこともある。無意味な行為だとは思っていない。ついに思い出したからだ。とうとうタイトルが出てきた時はもう本当に嬉しく飛び上がるほどで、同時に私は自信を獲得した。「ホレ見ろ! 記憶はちゃんと残っていたのだ。決して消えたわけじゃない」という自信がついたのだ。こうした自信、自分自身に対する揺るぎない信頼こそが大事なのだと私は思う。
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さて冒頭からなんでこんな話をしているのかということなのだが、じつはこのところの魔談で棺桶話題ばかりを書いているうちに、ふと浮かんだ映画の1シーンがあった。それは地中からボコボコと棺桶が地上に出てきて蓋が外れ、中からゾンビと化した死体が出てくるというシーンだ。さてなんの映画であったか?
私がまず思ったのはマイケル・ジャクソンの「スリラー」。このあまりにも有名なミュージック・ビデオは映画ではないが、マイケル自身はショート・フィルムと呼んでいたらしい。しかし私が微かに覚えているシーンはもっとシリアスで、ゾンビ死体が踊ったりしない。どうも違うような気がする。そこでソファに座って目を閉じ、記憶を探ってみたのだが、これはなかなか手強かった。なにしろ私の映画趣味というのは(途中で観るのをやめてしまったような)B級ホラーの範囲も含まれている。「ボコボコと棺桶が地上に出てきて」なんてシーンは山ほどありそうだ。今しばらく瞑想追求してみたい。
【 安全装置 】
さて「早すぎた埋葬」の次に進もう。
今回は、語り手が自分の恐怖を少しでも和らげるためにどんな手を打ったのか、整理して見ていきたい。これはもう涙ぐましいほどの努力であり、同時に滑稽の一歩手前といった感じだ。ここでは原文にならい「私」でこの対策を見ていこう。
(1)私は類癇により親友たちに随分厄介をかけ、彼らの誠実さえ疑うようになった。
……(疑い1)類癇が長引いた時、再起不能とみなすのではないか。
……(疑い2)類癇が長引いた時、厄介払いをするのにいい口実と喜ぶのではないか。
(2)私は親友たちに誓いを強要した。
……(誓い内容)保存不能まで腐朽がひどくならなければ、語り手を埋葬しない。
(3)墓窖(はかあな)を内側から造作なく開けることができるように作りかえた。
(4)墓窖に空気や光が入るようにした。
(5)私の棺のすぐ近くに、食物と水とを入れるのに都合のよい容器を置いた。
(6)私の棺は内側から蓋が開くような仕組みにした。
(7)墓窖の天井から大きなベルを下げ、そのロープを私の片手に結びつけるようにした。
さてここまでやって、語り手は少しは安心したのか。
このように十分工夫した安全装置さえも、生きながらの埋葬という極度の苦痛から、その苦痛を受けるように運命を定められている惨めな人間を救い出すに足りないのだ!(原文)
まあ、そうでしょうな。
【 つづく 】