【 銃撃魔談 】悪魔の銃・カラシニコフ(4)

【 カラシニコフ突撃銃誕生 】

前回はモデルガンの話に走ってしまったが、再びカラシニコフの話に戻りたい。
「悪魔の銃・カラシニコフ(1)」で述べたが、1941年といえば、ロシア(当時はソ連)にとっては、ナチス・ドイツが(宣戦布告なしで)攻めてきた「恨み重なる年」「祖国存亡の危機となった年」である。カラシニコフは戦車兵として出撃し、負傷して病院に送られた。その入院生活中から彼の独学による突撃銃研究が始まる。

そして4年後。1945年、カラシニコフは突撃銃のコンペに参加。これはじつは「StG44」の影響を受け、その上にカラシニコフ独自の工夫と改良を加えた銃だった。「StG44」とはなにか。当時のドイツ軍が大量生産し、最前線兵士たちが主力銃として撃ちまくっていた突撃銃である。フルネームをドイツ語で発音すると「シュトゥルムゲヴェーア・フィーアウントフィアツィヒ44」。我々日本人にとっては理解に苦しむというか、じつに長ったらしい(舌の体操運動のような)名前だ。ともあれ、1945年当時、ソ連とナチス・ドイツは戦争勝敗の命運をかけて突撃銃の性能を競っていた。

そこに彗星のように現れた新人突撃銃設計者がカラシニコフだったのだ。従来の設計者たちはおそらく「農家出身の戦車兵が? 独学で? そんなヤツがコンペに参加してきたのか」とナメてかかっていたことだろう。
ところがこのコンペでカラシニコフ開発の突撃銃は高く評価された。「AK/カラシニコフ突撃銃」の誕生である。「A/Avtomat」は突撃銃、「K/Kalashnikova」はカラシニコフを意味している。
その後、AKは破竹の勢いでソ連軍に採用されていく。
・1946:AKの量産決定。
・1949:ソ連軍に配布開始。
・1950:ソ連軍に広く普及。

AKはどのような点で最優秀と評価されたのか。
・簡潔な設計 → 分解・組み立てが簡単。
・抜群の耐久性 → 水中に落としてもその直後に発射可能。雨中でも発射可能。

カラシニコフは「銃の性能がどうこう」ではなく、「道具というものは誰でも扱え、かつ頑丈でなければならない」と説明した。彼の設計方針が非常に明確に示されている。

この「分解・組み立てが簡単」という利点を実際に証明するために、カラシニコフは女性兵士をプレゼンの場に連れてきた。彼女を立たせた前の机には、分解されたAKが置かれていた。次に女性兵士は黒い布で目隠しをされた。合図とともに、なんの迷いもなくガシャガシャとAKを組み立てたという。このプレゼンのために彼女はいったい何回の練習をしたのだろうと私のような男は気の毒に思ってしまうのだが、ともあれそのような突撃銃は、ロシアには存在しなかった。軍部高官たちが拍手したのも頷けるというものだ。

また「水中に落としてもその直後に発射可能」という利点を証明するために、カラシニコフは戦場の泥沼を連想するような「泥を入れた大きな四角い器」を用意した。兵士に命じてその中にAKをボッシャンと投げ入れさせ、すぐに取り出して「ババババッ」と連射させた。私のような男は「きっと均一で小石など含んでいない泥に違いない」などと邪推してしまうのだが、これまた軍部高官たちは大いに拍手した。

こうしたプレゼンでは、カラシニコフはAKの優秀さを模擬的に実際に見せることで、軍部高官たちの称賛を得た。「実演第一主義」といったプレゼンをしたのだ。おそらく彼の設計方針などは語らなかったに違いない。
彼の設計方針には、そうした核のようなものはあるのだろうか。そこのところに興味を抱いてあれこれ調べたのだが、「これがそれに近いかもしれない」という発言があった。

スターリンはAKの優秀さを認めて大いに採用すると同時に、その設計なり現物なりが外部に漏れないように厳命したという。連写訓練の時でさえ、その時に発砲した銃弾の薬莢(やっきょう)をひとつ残らず回収させたという。
そのような時代では、当然ながらカラシニコフも軍の関係者以外には設計思想など語ることはできなかっただろう。またその必要もなかったに違いない。

しかし後世、スターリンもソ連も消えてしまった時代に、彼はじつに興味深い説明をしている。
「私は、(AKの)すべての部品が宙に浮いているような設計を目指した」
次回はこの発言について大いに語り、カラシニコフ談を終わりにしたい。

【 つづく/次回最終回 】


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