悪魔談(11)

悪魔談11

女の喜びは男のプライドを傷つけることである。
(バーナード・ショウ)
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ちょっと奇妙なことだが、ルシファンは学校のトイレをすごく嫌った。まあ学校のトイレが好きだという人はあまりいないと思うが、彼女の嫌い方は尋常でなく、とにかくものすごく嫌っていて、それは嫌悪というよりも憎悪に近かった。……なので絶対に行かない。
いったい朝から夕がた近くまで中学校の塀のなかにいて、トイレを1回も使わないなんてことがありえるのだろうかと当時のぼくは奇怪に思ったが、もちろんその理由とかその対策とかは聞かなかった。聞いたところでちゃんと答えるハズがないし、「女の子に対して聞くこと?」なんて感じで余計な激怒を買うことになりかねない。
しかしこのときばかりは、そうはいかなかった。1階も2階もトイレはチェック項目に入っている。彼女が1階のトイレを無視したとき、ぼくはもちろんそのことに気がついていた。しかし宿直先生に対する反感やら、「こんなヒドイ任務、とっとと終わらせて帰りたい」という気分やらが優先していたので、黙っていた。……ところが同じように2階のトイレも無視されようとしたとき、思わずぼくは彼女に声をかけた。
「……ね、トイレもチェック項目に入ってるんだよ」
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ぼくにはそういうところがあった。いかに依頼者の宿直先生がどうしようもない酔っぱらいであろうとも、いかに彼女がトイレを憎悪していようとも、手許の一覧表項目に「1階トイレ・2階トイレ」という項目がある以上は、無視できない。それにそもそもこんな任務、ぼくは即座に断って帰るつもりだったのに、横あいから「ステキ!行ってきます!」なんてうれしそうな声を発して引き受けたのは彼女じゃないか。だったらトイレだってなんだってちゃんと全部調べろよ!……そういう反感気分がどこかにあったように思う。「トイレもチェック項目に入ってるんだよ」と彼女の背後から声をかけたその声音にも、微妙に怒りのテンションが含まれていたかもしれない。
果たして彼女は怒った。立ち止まり、振り返ってぐっとぼくを睨みつけ、無言で懐中電灯を押しつけた。ぼくはぼくで「勝手に怒ってろ」という気分だった。黙って懐中電灯を受け取ると、そのままドアを開いて中に入った。
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幸いというか、清潔な感じのするトイレだった。トイレ特有の匂いがするかと思いきや、消毒液の匂いが鼻の奥にツンと来るだけで、その背後に別の匂いはなかった。壁の照明スイッチを見つけてほとんど無意識に手を伸ばしかけたが、ハッと気がついて指をひっこめた。スイッチを入れたところで別段どうこうということはないのだろうが、手許の一覧表欄外に「注意」という項目があり、「教室、廊下、トイレなどの照明は不必要に点灯しないこと」という項目があった。そうした「注意」に対して、ぼくは何度も読み直して頭にたたきこまないと気が済まないような神経質なところがあり、頭に入れた以上はきっちりと守ろうとする性格だった。
ぼくは全部の便器に懐中電灯の光を走らせ、全部のドアを開いて中を点検した。どこにも異常はなかったが、ただひとつ、気になった点があった。女子トイレの便器にひとつ、ヒビが入っていたのだ。別段大したことではないし、問題にするようなことでもないように思った。……が、なにかがちょっとひっかかった。ぼくはその部分に光を当て、顔を近づけた。そしてわかったのだが、それはヒビではなく、女性の髪の毛が1本だけ便器にへばりついているのだった。その一筋の長い毛は便器の起伏にそってきれいにへばりついていたが、一番末端のところだけがほんの少しだけ持ち上がっており、それを発見することで髪だとわかった。ぼくはこの時も半ば無意識にそれに指を伸ばしかけたが、思い直してやめた。トイレを掃除するために来たのではない。
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点検を終えて外に出ると、ルシファンの機嫌は治っていた。あるいは「治っていた」のではなく、トイレから出てきたぼくの顔を見て微笑したのかもしれない。絶え間なく続いている恐怖の連続で顔面蒼白となっているぼくのやつれた顔を見て優越感でも味わったのかもしれない。彼女にはそうしたサディスティックな面がたっぷりとあった。微笑しつつなにかをぼくに話しかけようとしたが、ふっと笑顔を引っこめた。
「なにか見たでしょ?」
・・・・・・・・・・・・・・・・・・・(つづく)


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