【 魔の目撃 】(2)

そこは想像以上に気分のよいところだった。もう一度周囲を見回してだれもいないことを入念に確認し、私は足場の4階に座りこんだ。手の甲で額の汗をぬぐい、ため息をつき、ゆったりと深呼吸した。両足の下にあるべき地面は、はるか下方だった。好奇心にかられて両膝の間から地面を確認しようとしたが、そのあたりは漆黒の暗闇だった。
背筋のあたりにゾワッと恐怖が走ったが、全身のネジがガタガタにゆるんでしまったような疲労感の方が優っていた。「人間は疲れすぎると、恐怖心も薄らぐらしい」と真剣に考えた。疲労困憊状態というのは、限界に接近すると、なにもかもどうでもよくなるのかもしれない。虚無感がじわじわと心に滲んでくるのかもしれない。「なるほど拷問ではまず疲労困憊させるわけだ」とひとりで合点した。

隙間だらけの足場を吹き抜けてゆく風は心地よかった。「ヘルメットなしで足場にのんびりと座りこむ」など、日中の怒号飛び交う現場では絶対にありえない。そうした横着行為が、また気分よかった。ブランコのように両足をブラブラとさせながら微風と夜景を楽しんだ。「両足ブラブラ」は大学生にあるまじき幼稚な仕草であるように思われたが、これまた疲労困憊のおかげで「なに構うもんか」といった気分だった。

夕闇が深くなるにつれて、地上のイルミネーションはさらに輝きを増した。ひとりで夜景を眺めているうちに、じわじわと感傷的な気分になった。日中の熱射にさらされた足場やその下の草地からふわふわと浮き上がってくる独特の匂いは、少年時代の思い出へと誘った。
「匂いというのは、記憶に直結してるんだな」と真剣に考えた。草っ原から飛び出してキチキチと音を立てて逃げてゆくバッタ。目と鼻の先で見事に空中停止し、次の瞬間に宝石のようなきらめきを残して視界から消えていたギンヤンマ。

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ふと空腹を感じた。感じ始めると、猛烈になにかを食べたくなった。
「やれやれやっとまともな五感が戻ってきたぞ」といった感じだった。もう10分も涼んだらここを降りよう。そう決めた時だった。下方で「キャンッ」と犬の声がした。途端に私は体を固くして緊張した。まずい。犬の散歩だろうか。足場の下にでも来て上に向かって吠えたりしたら、面倒なことになる。

じっと動かずに様子を見ていると、足音は足場の近くを通り過ぎて、次第に遠ざかってゆくように思われた。ほっとしたものの、今度は犬の声が気になった。それは吠え声ではなく悲鳴に近いものだった。1回やそこらだったら気にするほどのことでもないだろう。うっかりと犬の足を踏んでしまったとか、そうしたことはよくある。しかしそのとき、犬の悲鳴はずっと続いていた。普通の散歩ではない、なにか異常な行動が地上で起こっていることはまちがいなかった。音を立てないように注意しながら、慎重に体の向きを少しずらした。目をこらしてその方向を見ようとしたが、暗闇の空き地でなにが起こっているのか、まったくわからなかった。

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異様な事態は次の瞬間に起こった。「ギャンッ」というひときわ大きな悲鳴。その後はすっかり静かになった。犬の悲鳴は途絶えた。
「まさか……」
最悪の事態を想像したが、なにしろ見えない。なにも見えない。イライラした私はとうとう我慢できなくなった。立ち上がった。ガシャッという金属音が足もとで起こったが、「なに構うもんか」といった気分だった。これまた疲労感が多少行動を横着にさせてしまったのかもしれない。「あっ」と呼応するように、空き地の方でもガサッと音がした。暗闇に誰かがいるのは確実で、その人間もまた足場の上方を凝視しているのだろう。
私は無言で足場の4階に立っていた。正直なところ恐怖で足がガクガクと震えそうなほどだったが、直感で「いま声を出してはまずい」と思っていた。無言でいる方が、きっと相手にとっては無限の威圧感を与えてゆくにちがいない。その結果、相手はどう出るか。それを見ようと思った。

……………………………………   【 つづく 】

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