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脳科学者が研究を進めるに当たり一番のジレンマはおそらく「人体実験ができない」という点だろう。程度にもよるのだろうが、人間の脳をいじったり傷つけたりして右脳・左脳の働きを分析する……などということをしてしまったら、それこそ大問題だ。そこでやむなく動物実験、ということになるのだろうが、これもゆきすぎた実験をしようものなら、動物愛護協会が黙っていない。
ジル・ボルティ・テイラーの場合、その点で彼女が体験したことはまさに「偶発的な事故がもたらした奇跡の自分観察」と言える。その著書「奇跡の脳」は「脳科学者が観察した自分の脳の異常事態」ということで、非常に興味深い読み物となっている。まさに「一般大衆向き脳科学読み物」と言えようか。事実、この本は米国で50万部を突破するベストセラーとなった。一躍有名になった彼女は各地で講演活動をするようになり、タイム誌「世界で最も影響力のある100人」(2008年)に選ばれた。まさに「知名度で大成功した脳科学者」と言える。
しかし(ここが面白いのだが)同じ分野の脳科学者たちは、いくぶん冷ややかな目でジルの大活躍を見ているように思えてならない。彼女が一躍スターダムにのし上がり脳科学という分野が広く一般大衆に認知されたことは、もちろん多くの脳科学者たちにとって喜ばしい朗報に違いない。しかしその名声はいわばイレギュラーな形で世間に知られるようになった結果であり、要するに「科学者としての正攻法ではない」といった(微妙に否定的な)意見なり感想をいたるところで見かける。その原因のひとつは、「論文ではなく著作で有名になった」という点と、その著作で表現された言葉(比喩)にあるように思われる。
ジルは左脳ダウンにより体験した「右脳独占状態」とでも言うべき特異な経験を「宇宙と一体化した気分」と述べている。その瞬間の至福感を「涅槃(ニルヴァーナ)の体験」と表現している。この表現に「科学者としてどうか」と反発を感じてしまった脳科学者たちが多いようである。それはそれで、まあなんとなくわかるような気もする。……というのも、「涅槃」とは極めて宗教的な言葉だからだ。仏教では「生死を超えた悟りの境地」を意味している。
彼女としては、あくまでも「ひとつの例え」としてこの言葉が一番ピタリときたのだろう。しかし「脳科学者の論文としては、この宗教表現はありえない」という主旨の意見をサイエンス雑誌で見かけた。こうしたやや否定的な意見、同じように「証拠がない」「数字として提示されていない」「宗教表現はありえない」といった指摘は、逆に彼ら科学者たちが「いかにこれらの事項に縛られているか」という事実を示しているように思われる。
では科学者としての正攻法とはどういった手順なのか。それはおそらく「権威あるサイエンス雑誌で論文を発表する」ということなのだろう。その論文には当然ながら客観的な事実(証拠)としての「数字」が整然と提示されていなければならない。またその文章はあくまでも沈着冷静でなくてはならない。「瓶から解放された精霊のように、私の精神は自由に舞い上がりました、 音のない恍惚の大海を悠然と泳ぐ鯨のように。涅槃(ニルヴァーナ)だ。これは涅槃(ニルヴァーナ)だ!」(「奇跡の脳」より)などという文学的表現はもってのほか!……とこういうことなのだろう。科学者を自認する人々は(やはりと言うか)感動的な表現や宗教色の濃い表現はお嫌いのようである。
一方、ジルはジルで「私の体験が論文として成立できないことなど、最初からわかっているわ!」という気分だったのかもしれない。だからこそ「本にして出版する」という手段をとったのだ。そして著者として大成功したのだ。
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こうした経緯を見てきたとき、筆者は思わずひとりの科学者を連想する。ジルの大成功に対し、誠に気の毒ながら、こちらは完全に失敗し悲惨な末路となったケースである。「22歳で博士号取得の天才」(ジルは32歳で博士号取得)「人体実験ができないジレンマ」「論文発表ではなく他の手段で一躍有名となった」という点でジルといくつか共通点がある。
その科学者の名はロバート・コーニッシュ。フランケンシュタインに興味のある人ならば、あるいは彼の名を知っているかもしれない。じつは筆者も「フランケンシュタイン」原作・映画・評論をあれこれと調べたことがあり、その過程で知った科学者である。
ロバートは「蘇生術」に夢中になった。あらゆる手段を使って人間の死体を得て実験したいと懇願し、結果、「マッドサイエンティスト」の烙印を押されて悲劇的な最後となってしまった科学者である。やや脱線の感もあるが、次回は「なぜロバートは失敗したのか」という点をとりあげたい。「人類のために」という志は同じでも、その手段により、その時代により、明暗を分けてしまった「暗」科学者の行動を追ってみたいと思う。
……………………… ……………【 つづく 】
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