【 魔の目撃 】(1)

大学生時代には「まあずいぶん色々なバイトをやったものよ」といまでもなつかしく思い出すことがある。
中学生の家庭教師、石膏デッサン教室の講師、公園の夜間巡回警備員、道路工事現場の夜間交通整理員、建築現場の資材運び、博物館の駐車場誘導員、発掘現場の助手、カフェバーのカウンター接客、銭湯の壁画制作、ジャズバーのステージ背面壁画制作、捨て犬の里親探し、迷子犬の探索、レコード店員、ホテルのプール監視員……いま思い出すままに、「そうそう、あんなバイトもやった、こんなバイトもあった」といった感じで順不同でそうしたバイト項目を書き上げただけでも、その折々の懐かしいシーンが次々に脳裏に浮かんでくる。その思い出だけを酒の肴に、2時間でも3時間でもひとりで飲めるほどだ。

なぜそこまで次々とバイトに精を出したのか。理由はふたつあった。ひとつはもちろんお金がほしかったからだ。女の子をデートに誘ったり遊びに行くためのお金ではなかった。その時期の私は、木製パネルに絵を描くことに夢中だった。画材はアクリルガッシュである。この樹脂系絵具は、水彩絵具と違って木やガラスやプラスチックにも描くことができた。速乾性であり、乾燥すると耐水性だった。じつに魅力的な画材だったが、なにしろ高価だった。

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アクリルガッシュという画材は高校生時代から知っていた。市場に出始めたばかりのこの画材は「ポスターカラーよりも一段進化した画材」といった感じで、多くのアーティストたちが絶賛していた。興味はあったし使ってみたいと思ったが、受験戦争の只中にあって「絵を描く」気分にはとてもなれなかった。

当時、中学校の美術教師をしつつ意欲的に抽象絵画を制作していた父がいち早くアクリルガッシュに目をつけ、かなり贅沢に買いこんできたことも知っていた。
父の外出時に彼のアトリエに立ち、なんとも複雑な思いで、制作中の絵画やアクリルガッシュのチューブを眺めていた記憶がある。鉄格子つきの小窓から庭園のバラを眺めているような気分だった。しかし「使ってみたい」とか「自分もほしい」とか、そういうことは決して言わなかった。その理由を話し始めると長くなるし今回の本題からずれてしまうので割愛するが、「よほど悔しかったのだろう」と苦笑気味に思い出すのは、その箱が「ニッカー24色セット」だったことをはっきりと覚えていることだ。
その後郷里を離れ、大学生となり、社会人となってからも、画材店などで「ニッカー24色セット」を見かけるとなんとも言えずほろ苦い思いに、ふととらわれることがあった。過去はもう取り戻せないと知りつつも「あの時代に好きなように絵を描いていたら、どんな絵を描いていただろう」という思いに何度もとらわれた。

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話を戻そう。アクリルガッシュは高価な画材である。スタンダードのチューブでさえ1本¥300ほどだった。湯水のようにこれを使って絵画制作することなど、大学生時代には「夢のまた夢」だった。
ところがその時期、私はB2の板(515/728mm)に地塗りをした上で大きめの平筆を使い、一気に全面グラデーションを描く制作に夢中だった。深いバイオレットからコバルトブルーを経過し、ターコイズブルーに至るグラデは、星を散りばめることで幻想的な星空になった。その星空を背景になにを描くか。毎日のようにその星空を眺めて、あれこれと夢想する制作をこよなく愛していた。

バイトに精を出したもうひとつの理由は、そこで垣間見る様々な人々の生き様に興味を持ったからだ。これははっきり言って大学の退屈な講義などよりもはるかに面白かったし、「この経験はそのうちに、きっとなにかの役に立つ」と信じて疑わなかった。
社会的に成功しそれなりの収益を得たり知名度を獲得した人々の自慢話は退屈であり得るものはなかったが、様々な理由で「自分には運がない」あるいは「自分はこの社会の底辺」といった言葉を口にする人の方が大学生である私に対して優しかったし、色々と面倒を見てくれた。たぶん大学生にも「遊びながら通学している学生」と「バイトに来なければやっていけない学生」の差が歴然とあり、それが彼らには敏感にわかったのだろう。

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こんなシーンが思い出される。
お盆の時期の夕暮れだった。建築現場の資材運搬から解放された私は、疲労困憊で足場の一階に座りこみ、「安全第一」のヘルメットを脱いだ。汗ばんだヘルメットの内側からは、私の体臭ではない別の男の体臭がツンと鼻にきた。「メシを食いに行くか」と誘われたが、空腹感よりも疲労感の方が大きかった。
「ちょっと疲れすぎて……」と力なく笑って見上げると、「まあ1週間もすれば慣れる」という返事。錆びた声の主はいかにも現場監督といった感じで、腰をやや沈め、腰まわりの道具をガシャガシャと揺らしながら去っていった。急速に暗くなり、ふと気がつくと周囲にはだれもいなかった。

私は不思議な思いにとらわれた。つい先ほどまで、ここは騒音と掛け声の飛び交う活気あふれる場所だったのだ。それが半時間やそこらで、廃墟のような静けさだ。なにか虚しいような奇妙な感慨にとらわれてしまうような気がして、私はあわただしく立ち上がり、尻をパンパンとはたいた。この場所で私が果たすべき仕事はなにもない。そのまま街のイルミネーションに向かってさっさと立ち去りたい気分だったが、いったいどうした心境の変化であったのか、ふと足場の上方を見上げた。足場4階から眺める街、その上空を流れる風……さぞかしいい気分に違いない。

周囲をゆっくりと見回した。だれもいなかった。やってみる価値はあるだろうか。
「ある」と魔がささやいた。

……………………………………   【 つづく 】

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