建築現場における私の仕事はまさに「日雇い」だった。朝の7時に現場に行き、現場監督からその日の指示を受ける。それまでは全くわからないし、わかる必要もなかった。
作業の多くは足場の1階や2階で建築資材を受け取り、それを上の階にいる作業員に手渡しすることだった。それは鉄製パイプだったり、金属板だったり、合板だったりした。また建築の進捗状況により、作業内容は様々だった。
スーパーラッキーな日もあった。
「今日はこっちの現場はいい。交通整理しろ」と現場監督から指示された日は(内心では飛び上がるほどの)ラッキー日だった。「交通整理」とは名ばかりで、周囲はどこにでもあるような住宅街だ。小学校も近くにあり、ほとんどの道は一方通行となっている。住民の車しか入って来ないような狭い道であり、交通整理の必要は全くない。現場監督は要するに「今日はそのあたりで休憩でもしてろ」と言ってるのだ。私は現場事務所から貸してもらったブカブカのLL作業着をTシャツの上に着用し、「安全第一」ヘルメットをかぶり、「安全確認」腕章をつけ、現場周辺をぶらぶらと歩き回っているだけでよかった。
現場の男たちはみな無言で黙々と作業する男たちばかりだった。厳しくも優しくもなかったが、ひとり、いつも微妙に不機嫌で不愛想な男がいた。中年の韓国人で、頰に鋭利な刃物でスパッと切られたような直線の傷跡があり、どことなくキツネを連想させる貧相な痩せた男だった。独特の奇妙な抑揚で日本語を流暢に話し、鋭く細い目で周囲の男たちを(どこか軽蔑したような複雑な視線で)睨んでいた。
このキツネ男もどうやら日雇いで現場に来ている様子だったが、私を見かけると、まるで上司であるかのように、顎で「あっちに行け」「こっちに来い」といった指図をした。ムカついたが、私はいつも黙ってそれに従った。
そのキツネ男がニヤニヤ笑いながら私の前に来た。なにを言うのかと思ったら「警察が来る」と言い「……オレらを調べるらしい。警察に知らせたオレらを疑うとはな。変な国だな」と笑った。黙ってうなづいていればいいものを、思わず言ってしまった。
「疑っているわけではないでしょう。なにか情報がほしいのでしょう」
「ヘンッ」
彼はたちまち不機嫌になった。
「お前の取り調べが楽しみだな」
そう言って去って行った。なんのことを言ってるのかさっぱりわからなかったが、彼のこの捨て台詞は妙に気になった。不安感が一気に増した。なにかを知っているのだろうか。いやそんなはずは絶対にない。しかし不安感はそのまま残った。
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昼前に1台のパトカーがゆっくりと現場に入ってきた。まるで教習車のようにゆるゆるとした運転だ。しかしパトカーだけに、そのスローな移動には奇妙な凄みがあった。
現場監督が「15分の休憩!」と声をかけ、集合を命じた。我々は作業を止めて地上に降り、なんとなく集合した。その前に二人の警官が立った。さすがにこうした状況には慣れているらしく、軽やかに敬礼した。
「昨夜、すぐそこで犬を殺した者がいるようです」
警官はそのあたりを指で示した。
「……なにかお気づきのことがあれば、我々に連絡してください」
話はそれだけだった。現場監督はそれがちょっと意外だったらしく腕時計を見て一瞬思案したが「……ま、いいか」といった感じでニヤッと笑った。
我々はそのまま昼食の休憩時間に入った。警官二名は犬の死体を見おろしていた。一人は書類になにかを書き込み、もう一人は写真を撮っていた。
すぐ傍にいた作業員が「見に行くか?」と誰かを誘い、「バカかお前。昼飯前だぞ」と罵倒されていた。私は朝飯ヌキで現場に来ていたので、腹ペコだった。すぐに現場を出て調理パンを買いに行った。殺された犬を見るつもりはまったくなかった。
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その日は朝から気温上昇が激しかった。私の仕事は資材運搬ではなく、3階で合板を取りつける作業の補佐だった。さほどキツい仕事ではなかったが、作業に没頭することで余計な不安を払拭したい気分だった。黙々と作業に専念したが、ヘルメットから流れ出てくる汗には閉口した。目に入ると「ウワッ」と苦痛に感じるほどに痛かった。すぐにでもヘルメットを脱いでタオルで頭をガシガシと拭いたい気分だったが、自分ひとりで動いているのではないので、そのチャンスさえなかなか来なかった。
地上でなにか騒ぎがあった。見ると、男が倒れていた。キツネ男だった。事務所から担架が運ばれてきた。
「たぶん目眩だ!」と現場監督が上の我々に向かって言った。ついで私を呼んだ。
「すまんがちょっと降りてきてくれ」
…………………………………… 【 つづく 】
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