【 魔の目撃 】(10)

現場に向かいつつあれこれ考えた。今日と明日でこのハードなバイトは終了だ。この最後の2日間のあいだに彼女を見かける確率はいったいどれほどなのだろう。彼女を見かけることがなかったら、この件は終了だ。もうこのあたりに来る機会はないだろうし、彼女を見かけることは二度とないだろう。
もしこの2日間のあいだに彼女を見かけたら……。

結論は出なかった。「声をかける」という決意には至らなかった。「情けない男だな」と苦笑する思いだったが「その瞬間の判断にまかせよう」と決めた。そう決めたものの、実際にはどうするか、簡単に予想はついた。たぶんなにもしない。あれこれと葛藤しつつ、結局はなにもしない。歩行をゆるめることもなく、ついにそのまま見送ってしまうにちがいない。

「それでいいのか、そんなことでいいのか」という自己批判はあった。しかし追求して自分を責めたり自分を正そうとする気力が萎えていた。早朝から夕方までたんたんと肉体労働に従事し、解放されたらその足で大衆居酒屋の暖簾をくぐり、ビールやホッピーや酎ハイをグイグイと飲み、グデングデンに酔って帰宅する日々。ベッドに倒れこんだら、次の瞬間には目覚まし時計が鳴っていた。本も読まず、絵も描かず、手紙文さえ書かず、その瞬間の感情だけで生きているような真夏の日々。

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またとない、いい経験だったじゃないか。その感慨に異存はなかった。とにかくこれで少しはまとまったお金が入ったわけだし、これから先、こういうバイトはもう二度としないだろう。心が砂漠のように乾燥し、亀裂が入り、荒廃したような気分だが、数日間部屋に閉じこもり、好きな小説を読み返したり、幻想絵画のつづきを描いたり、母に手紙を書いたりして過ごせばきっと元の自分に戻るだろうし、その自分は以前の自分とは違う。

そこまで考えて、足どりはいくぶん軽くなった。
彼女はいなかった。白いワンピースの女性が視界に入りドキンと心臓が跳ねあがることが数回あったが、結局、その日は往復とも彼女の姿を見ることはなかった。

帰り道で居酒屋に寄ることはやめ、さっさと帰宅して銭湯に行った。さっぱりした気分で銭湯から出てきて、すぐ近くの居酒屋に寄った。生ビールを飲みネギマをかじりながら、なんとなく彼女のことを考えていた。棒のように細い左足のことを考えていた。余りにも細いので白いソックスさえ下にずり落ちてしまうらしく、たぶん彼女はそれが嫌だったのだろう、左足のソックス上部に輪ゴムをはめていた。黄土色で幅広の輪ゴムだった。輪ゴムで固定するしか方法はないのだろうが、しかし輪ゴムでは血液の循環が悪くなってしまうのではないかと真剣に考え、「いったいなにを考えてんだか」と苦笑した。

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最終日。朝からドキドキで現場にむかった。この日も猛暑が予想される陽射しだったが、割合に風のある日で、しのぎやすかった。彼女の姿はなかった。現場に着き、いつものように現場監督から指示を受けた。指示はあまりにもたんたんとしていつものとおりだったので「本当に今日で終わりなのか」とちょっと疑うような気分になった。しかしひととおりの指示が終わったあとで、彼はニヤッと笑った。
「今日で終わりだな。今日はオレのオゴリだ。作業が終わったら、ちょっと待っていてくれ」

……………………………………   【 つづく 】

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