「妙だな。じいさんが出て行くところは見なかったぞ」
「……あ、裏口か!」
TTはすぐにパン屋の裏に回った。果たしてドアがあった。ドアノブをガシャガシャと回したが、ここも鍵がかかっていた。一気に暗い気分になった。
「まてまて、彼は歩きのはず。まだそう遠くには行ってない」
TTはパン屋に入る前に、そのたたずまいを観察していた。周囲をぐるっと一周するようにして眺めていた。その時の記憶では、家のぐるりには車も自転車もなかった。
「やはり歩きだ」
周囲を見回した。老人が歩いていった方向はどこか。
「あの集落の方向だろう」
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集落に向かって走り始めたが……やはりキツかった。バッグパッカーというのは、よほどのことがない限り走ることはまずない。なにしろ重いザックを背負っている。彼はざっと28kgの重量を背負っていた。体重54kgの男が82kgになって歩いていたわけだ。
ジッツオがなくとも撮影はできる。今日はジッツオなしでこのあたりを撮影し、明日また店に来るという手もある。
「そうしようか」
一瞬迷ったが、次の瞬間に「いやいやそれはよくない」と思い直した。ジッツオは単なるカメラ三脚ではなかった。長年にわたり彼と行動を共にしてきた相棒だった。
「それを置き忘れてくるとは……」
「しかも今まで気がつかなかったとは……」
店内のどこにジッツオを置いてきたのか、まったく記憶になかった。
「よくあることだ」
苦笑して「こんな時はあまり自分を責めるな」と思ったが、「……それにしてもジッツオを置いた場所も思い出せないとは」
何度も思い出そうと努力してみたが、どうしても思い出せない。
「歳のせいだろうか……」
疑わざるをえない。62歳。50代に比べて、記憶力も体力も落ちてきたような気がしていた。最近は腰の痛みをかなり深刻に感じるようになった。競歩程度のスピードだったが、重いザックを背負って走るなど、カメラマンとしての寿命を縮めているようなものかもしれない。
ハアハアと息を切らせた状態で、少し走っては歩き、また少し走った。思い出したくない出来事だったが、どうもあの人形を見てからというもの、頭のどこかでその姿を回想しようとしている自分がいた。
「こんなことを人形のせいにしてどうする」
あの人形に気をとられていたので、ジッツオを置いた場所も思い出せないような気がする。とにかくジッツオを取り戻してこの手に握らないことには、どこへも行けない気分だ。
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やっと集落に入った。洗濯物を干す老女。道を走る子供。しかし会話ができないのでどうしようもない。ザックを背中にくくりつけたままで、樹木の根元で両足を投げ出した。
「どうする?」
「このザックをどこかに預けて、じいさんをさがすしかないな」
しかし宿があるような村落とは思えない。
「酒場とかもないのかな」
あるとは思えなかった。彼は丘の上を見た。
「そうだ。教会に行ってみよう。教会なら安心だ。英語が通じるかもしれない」
今度は登りか。うんざりした気分だったが、丘の上の教会を目指した。
…………………………………… 【 つづく 】
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